性被害からの回復2-①「呪いを解いてみる」
(リリー・ロイ)
「ロイさん・・・ロイさーん!」
長い長い回想に沈んでいた私は、名を呼ばれて我に返る。今夜は虹ジャムの語り合いの日。ズームでつながっている仲間と会える、貴重な日だ。
「カルト化した教会」という言葉は、いまやよく知られるようになった。20年前、私がさ迷いたどり着いてしまったところは、まさにそれだった。自分が牧師だと思い込み、家を教会ということにして、多くの傷ついた女性を集めたその人は、今とても遠くにいる。しかし住まいは遠くとも、彼女にかけられた呪いは私を束縛し続けた。精神科を探し、カウンセラーを探し、自助グループにつながり、そしてやっと約束の虹ミニストリーに出会えたのである。
カルトが人を束縛し「呪い」をかけるため、聖書を利用するのはよくあることだ。例えばこんな言葉が、マインドコントロールに利用されていた。
「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。」(コロサイ3:5)
彼女は性欲を、悪霊からのものと教えていた。だからこのようなみことばを、情欲がなくなるまで告白し続けるように教えたのである。それは懸命に回復しようとする魂を、再び泥の中に鎮めるようなものだった。性被害による自責と恥を、再度強くなすりつける教えだったのである。
約束の虹ミニストリーでは、月2回、語り合う機会がある。虹ジャムという名前のそれはまさに、ジャムセッションのように自由だ。「信仰とセクシュアリティ」を安全に語れるなんて、まるで生まれてはじめて深呼吸ができたかのようだった。こうして信頼は育まれていく。信頼は私に勇気を与え、かつてカルトが利用した聖書の言葉に、向き合いたいと思えるようになった。
聖書は文脈が大切だ。上記のみことばは「空しいだましごとによって、だれかの囚われの身にならないように」(コロサイ2:8)注意を与える文脈にある。
この新約聖書の書簡の宛先である「コロサイ人」の間では、禁欲が教えられていた。「つかむな、味わうな、さわるな」(コロサイ2:21)つまり食物規定を守らなければ、信者とは認めないと言っているのだろう。
私はカルトのマインドコントロールから脱するために、カウンセリングを受けたことがある。その時お世話になったカウンセラー(牧師)はこんなアドバイスをくださった。「聖書は愛を伝えています。聖書で脅すのはカルトです。」ではこの「殺してしまいなさい」という勧めは、果たして愛なのだろうか?それを知るために、コロサイ人への手紙の鍵となる聖句を見てみたい。この手紙の筆者であるパウロが、コロサイの人々に最も知って欲しいこと。それはイエス・キリストの十字架の意味なのである。
「私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ2:14)
このみことばは、愛を伝えている。人は様々な規定で、あなたを責めるかも知れない。しかしあなたの債務証書は、十字架で取り除かれた。だからもう、人が負わせる罪悪感に苦しまないで欲しい。あなたを赦すため、キリストは十字架で死に、よみがえられた。だから、それを信じるあなたもまた、古い自分に死に、よみがえったのだ。今あなたは神の子だ。罪深い情欲に支配される奴隷ではない。もちろん肉体とともに生きる間は、性欲がある。しかし古い人を脱ぎ、キリストを着たあなたは(コロサイ3:10)もはや人の尊厳を踏みにじるような情欲から解放されている。
「殺してしまいなさい」。これはとても、厳しい言葉である。それはコロサイの人々が、情欲によって人を蹂躙し支配する時代に生きていたから、そこから救い出されたのだと強調するための言い方なのだろうと、いま私は捉えられるようになった。
虹ジャムで語り合ってきたことで、聖書があたたかく聞こえるようになった。そしてこのブログも、新しいステージに入っていく。それは今まで殺してきた情欲、いや情と健全な欲を回復する旅だ。心地いいなとか、会いたいなとか、好きという気持ち、キュンとするときめき・・・。そんな神さまが私に本来与えてくれた伸びやかな心を取り戻すための回復の旅を、これから記していきたい。
読者のみなさんのことも、イエスさまが癒してくださいますようにと、心から祈りつつ、ゆっくり想起していきたいと思う。
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