性被害からの回復2-②「あなたの父の家を忘れよ」
(リリー・ロイ)
桜を美しいと、思ったことがなかった。時が来れば散るのだ。それなら初めから、出会いなど要らない。たとえ好きになってしまったとしても、その人はもう死んだ。そう思い込まなくては生きられなかった。人を求めないこと。淡々とやり過ごし、考えないようにすること。それが私の恋愛観だった。恋愛など、ドラマやマンガで十分。リアルで恋愛できる人は特別で、自分は生涯そこに入ることはできないと思い込んでいた。だから「あなたには、愛されたいと望む蛇の霊が取り付いている。」とカルト指導者に言われても、そうかも知れないと思えた。どんなに押し殺そうとしても、やはり自分に人を恋い慕う想いがあることを、嫌悪していたからである。
カルトには苦しめられた。でもそこでしか得られなかったものがあった。小学3年生の時、マヨネーズを顔に塗って登校したことがある。母に「顔を洗いなさい!」と叱られたけれど、実際どうすれば良いか、お手本がなかった。キッチンにはいつも焼酎があり、酔っている母に「わからない」と言うことができなかった。たまたま訪ねてきた叔母が、朝早く水道の所で何かを塗っている。クリームみたいな物。それを水で流すと、「顔を洗う」というものになるらしかった。だからそれっぽいものを探した結果、それがマヨネーズだったのである。
そんな風に、生活のスキルがなかった私にとって、抱きしめてくれたカルト指導者がお母さんになったのだ。彼女は体を清潔にする方法や、掃除洗濯などを教えてくれた。だからカルトであっても、解散はショックだった。私はまた、死を願うようになったのである。
居場所を失ったのは、これで何度目だろう。暗くじめじめした部屋の壁紙は、カビてはがれ、相変わらずお金がなく、100円玉を握りしめて買った小麦粉を、水でこねて食べる日々だった。そんな辛いとき思い出すのは、実家から裸足で逃げて、見つめたあの教会のことだった。気づくといつの間にか、日曜礼拝に出席していた。新しく赴任した牧師さんがそこにいた。そしてなぜか、父親についての話があった。丁度父子関係の聖書箇所の説教だったのだろう。牧師はこう言った。
「『父母を敬え』と、聖書に書いてあります。でも許せないこともありますよね。私たちがそれぞれ、癒されるために、今ともに祈りましょう。」
心の中で、私は祈った。「許せない」なんて、クリスチャンなんだから、思っちゃいけないと律してきた。だけど夜這いのように、触りに来られるのは嫌だった。抵抗したら殴られるのも嫌だった。嫌だった、嫌だった・・・。とめどなく思いが溢れ、いつの間にか、私は号泣していた。その時、心に響く言葉があった。
「あなたの父の家を忘れよ。」
帰宅して服も着替えずに、あの時はっきりと心に聞こえた言葉を調べた。きっと聖書の言葉に違いない。調べに調べ、ようやくそれが、詩編45篇10節であることを突き止めた。そしてふと、詩篇45篇の冒頭を見て、ドキリとした。これは・・・これは婚礼の歌ではないか・・・。実はその時、すでに死ぬことを決めていた。何の未練もないはずだった。それなのに、なぜだろう?あの礼拝で隣に座っていた人のことが、頭から離れなくなっていた。あまりに不思議なことだったので、まずは牧師に打ち明けた。
「では彼に、それとなく聞いてみましょうか?」
何て大胆なことを言う牧師なのだろう。そのとき眼前に、もうひとつの道が、ぼんやり見えるような気がした。
0コメント