僕のお恥ずかしい話から「罪」を考える
(執筆 ルカ)
僕のお恥ずかしい話を聞いていただけますか。
過去の僕はメサイアコンプレックスをこじらせていました。辛い過去や心の傷を持つ友達ができると、「自分が聴いてあげればきっと楽になる!」と思い込み、頼まれてもいないのに無遠慮に過去の話を聞き出してその心にズカズカ土足で踏み込み、生傷に塩を塗りこむようなことをしてしまっていました。
また一方で、トランスジェンダーの自分は辛い思いをしてきたんだと悲劇の主人公気取りで、ちょっと聞き上手の友達ができると一方的に聴いてもらうモードになり、その人が何か自分の話をしようとしてもきちんと受け止めずに、また自分の話に持って行ってしまうということを繰り返していました。
その事実に長らく自分では気付くことができなかったのです。
しかしある時そのうちの一人から「もうあなたにはこれ以上我慢できない」から始まるメールで、僕に対する告発と様々な感情…傷つけられたという怒りだけでなく、今も友達だと思っているからもうどうしたらいいかわからないという悲痛な叫びも…の渦巻いた思いの丈をぶつけられました。
そこまで言われて、やっと「僕はこのままじゃダメだ」と立ち止まったのです。足元が崩れ落ちるような恐怖と目眩を感じながら。
といっても、その時すぐに自分のやってきた過ちがすべて理解出来たわけではなく、頭の中にはすぐに言い訳が次々浮かびました。でも、メールだったことが幸いしてすぐには言い返さずにすみ、少し時間を置いてから、とにかくただお詫びの返事をし、その日から僕の人生最大の悔い改めが始まりました。
そして他の親しい人たちにも「僕の今までの言動であなたを傷つけたり不快にしてませんでしたか。本当に変わらなくてはいけないと今痛感しているので、言いづらいと思うけどどうか教えてください」と片っ端から尋ねると、みんな細部は違えど、だいたい同じ問題を僕に感じていたようで、その問題のためにずっと祈ってくれていた友達もいたことがわかりました。
それらの指摘を素直に認めることはほんとうに苦い盃を飲み干し続けるような過程でした。
でも、自分が今まで皆に与えてきた傷や痛みはこんなレベルではなかったのだと何度も思い直しながら、ひとつひとつ受け止めていきました。
「ルカのこういうとこホント嫌だなあ」と思いながらも関係を続けてくれた人たちをこれ以上傷つけ悲しませたくない。親しい人に非を指摘することのしんどさや、言い訳とか反論されたらどうしようという恐れを乗り越えて伝えてくれた人たちを裏切りたくない。
その一心でした。
僕は当時、きよめ派の神学校にいました。全き明け渡しとか、古い自我の磔殺(たくさつ)だとか、さんざん授業やメッセージで聞きましたけど、何度聴いてもまったくわからなかったのです。ちなみにそれまでは、「ポルノサイトを見てしまうのをやめられませんごめんなさい、やめられるようにしてください」という祈りを本気でしていましたが、聞かれませんでした。
ところがその祈りへの答えの代わりに、僕が無自覚に大量の釘を打ち付けてしまっていた一人ひとりが、十字架にかけられたイエス様として、僕に「やめてくれないか」と訴えてくれたおかげで、僕は自分の罪がやっと理解できました。
その最も向き合うべき重大な罪・過ちを認められる心境は、間違いなく聖霊様がくださったものです。
もともとの僕は、怒られたらすぐ言い訳して逃げて相手が叱る気もなくしたり、人当たりよくニコニコすることで面と向かって批判しづらい心境になるのを狙うような卑怯な人間でした(それを認めてこうして書けるようになったのも聖霊様の助けなしにはありえません)。
聖霊様は、危害を加えた相手という、僕が最も耳を傾けなければいけない人たちを通して僕の罪を指摘し、同時にそれを逃げずに受け止められるようにしてくださいました。
それは抽象的でスピリチュアルな方法ではなく、僕を見捨てずに忍耐強く友達でい続けてくれた周りの人たちの愛を通して現された、非常に具体的なものでした。
僕はこの経験を通して、ヨハネ16:8でイエス様が仰った「罪について、義について明らかにする」という聖霊様のお働きを、初めて身を以て理解し信じることができるようになりました。
僕は今もなお、その罪について…つまり自分を救い主として思い上がる傲慢と、相手より自分中心に考えてしまう自己中心という罪について、悔い改めの旅の途上にあります。
たぶんこの性質自体は幼き頃から根深く染み付いたもので、一生戦わなければいけないでしょう。
また、自分の非を認めたくない、皆だって悪いところあるじゃないかと開き直りたくなる誘惑もいまだについてまわります。
すでに何度も同じ失敗を繰り返しています。でも、この出来事の前に比べたら、だいぶマシになってきたことを自分でも感じるし、周りからも「変わったね」「安心して話せる」と言ってもらえるようになってきました。
そして、最初ざっくりとしていた「どうして自分はこうなのか」「自分がやらかすことのどこがどう問題なのか」に対する理解の解像度も少しずつ深まっています。教会で教わったことを勘違いしたまま身に付けたものなのか、社会構造から染み込んできたものなのか、など。
この過程こそがきよめなんだ、と思っています(あくまでも個人的な見解で、そのほかのきよめ理解を否定する意図はありません)。
そして、取り組むべき「罪の課題」は人それぞれ違うと思うのです。
仮に同じ問題を共通して持っていても、その人が「今」どれに取り組んできよめられていくべきかは、神様にしかわからないはずです。
そういうときに、たとえば、外野が「同性愛こそ真っ先に取り組むべき課題、離れるべき罪だ」とやるのは、その人のためになるでしょうか?
ただでさえ、いつ侮蔑されたり拒絶されるかわからない少数派としての生きづらさ、このままでは将来家庭を持つことも許されないという閉塞感、世間にある「普通の幸せ」から放り出されたような苦しさの中でどうにか生きているのに。
その人が救われた後、もしも本当に同性愛がその人の取り組むべき「罪の問題」なのだとしたら、神様は必ず、しかるべき時にその人に語りかけるはずです。
私たちクリスチャンがもっと優先すべきは、自分自身の罪とまず向き合うこと、そして苦しんでいる、苦しめられている人の傍らに共に座り、その人の目線に少しでも近づこうと歩み寄ることではないでしょうか。
そのような「無条件の受容」を通して、人は神様からの愛や受容を肌身に感じることができ、そうなってこそ、自分に示された罪と向き合うだけの強さを獲得していけるのだと思います。
逆に、周りから「罪」の部分にしか目を留めてもらえなければ、かえってそこに向き合えなくなる、それが人の弱さの現実だと思います。
また、同性愛のことに集中させすぎるあまりに、それよりもっとその人や周りにとって深刻で、本当に取り組むべきその人の課題の妨げになってしまうかもしれません。
上で書いた僕の場合は、自分のきよめられるべき罪とはてっきりポルノ中毒のことだと思ってましたので、他にもっと深刻な課題があるなんて、祈り尋ねることすら思い浮かびませんでした。
誰も巻き込まずにひとりでポルノを見ることを反省することなんかより、ずっとずっと優先すべき重要課題があったのに。
(ポルノ自体の如何については本筋から反れるのでここでは書きません)
僕は、「クリスチャンは全員、『同性愛は罪だ』と思うのをやめるべき」とは思っていません。生理的に嫌悪感があるのもしょうがないことだと思っています。
しかし、(当事者がそれを問題だと思ってそのことに関して助けを求めていない限り)そのことをことさらにピックアップしないで欲しいということを訴えたいのです。
他人の罪(だと思えること)について、祈ることはどうぞ心ゆくまでなさってください。
それが御心にかなっていれば、聞き入れられます。僕の親友たちが僕の問題のためにひそかに祈ってくれたことのように。
けれど、的外れな祈りをしている可能性も大いにありますから、当人に向かって「あなたが同性愛を悔い改められるように祈ります/祈っています」なんて言わないようにお願いいたします。相手が祈って欲しいと言ってきたことについて、あなたの心に咎めのない範囲で一緒に祈ってください。
たとえばあなたが同性愛は罪だと思っているとして、「彼女(妻)を与えてください」と願う女性のために祈れなくても良いのです。「ごめんなさい、私はそれについては信仰が違うから一緒にその通りには祈れない。でもあなたがどんな形であれ幸せになれるようにとなら祈りたい」と正直におっしゃってくれたらどれだけ励まされるでしょうか。どれだけ信仰の成長の助けになるでしょうか。
結果については、全てをご存知の神様にお委ねしましょう。
P.S.同性愛と書きましたが、性別移行などほかのセクシュアルマイノリティーの課題についても同様のことが言えます。
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