みことばの戸が開くと
(M. 50代 シスジェンダー・ヘテロセクシュアル男性)
かつての私の性理解
私は聖書信仰に堅く立つ牧師として、恐らく福音派の牧師が持つであろうごく一般的な意識を持っていました。それは次のようなものでした。“性指向が異性へと向かわない傾向を持つ人についてはハンディキャップに近いもののようにとらえ、そのような傾向や衝動にかられるのは責められることではない。それは本当に悩ましいものであり、どこまでもその人に寄り添うべきである。だからと言って本来与えられている身体とは異なる性を自認したり、ましてや身体的に普通と思える異性間以外の婚姻関係はあり得ない。同性による婚姻関係があり得ないならば、同性による性交渉は姦淫であり、婚姻へ向かうことを前提とできない同性パートナーの営みは不品行の罪を犯すことであり、それらは異性間でのことと同じ基準である。それゆえに教会、特に牧師は“同性愛的”な指向にある人に対して可能な限り寄り添いつつ、互いにつらくはあっても、それらの罪性を何かのかたちで語る責任がある。みこころならば癒され、矯正されていくために祈りと力を尽くし、癒しへと向かえないなら共に重荷を負い続けるべきである”と。
そもそも私は彼らを表現するのに“同性愛的”というこことばしか持ち合わせないような、まったく理解に乏しい者でした。“LGBT”ということばが広く認められ始めた頃にも、考え方の整理がしやすくなった程度にしか思っていませんでした。
留架との出会い
数年前の夏に、講師として招かれたあるクリスチャンキャンプで留架と出会いました。そこに出席していた留架が最初の集会後すぐに飛んで来て、話しかけてくれたのです。彼はあいさつの真っ先に自分の性的アイデンティティについて紹介してくれました。それはまるで、「私は大学生です」とか、「少し前に結婚したばかりで……」と、自分の基礎情報をもって自己紹介するかのように自然なものでした。またそれは、例えば私が自己紹介で「実は牧師をしていまして……」と切り出すかのような、それを明かさなければ話が先にも進まず、相手を後で戸惑わせてしまうかもしれないと、相手と意思疎通するのに欠かせなくもあり、そして少しの誇りでもある何かのように聞こえました。それは振り返ってここに記していることであって、その時は私もごく自然に、「おおそうなんだ、よろしくね」とそのまま受け止め、気持ちのよい若者と一緒にキャンプで過ごせるうれしさを感じたことだけを覚えています。
キャンプで一緒に過ごしながら、留架は私に自分の性自認がもたらす日常について自ら積極的に話してくれました。外でのトイレを利用する時が悩ましくはあるが、最近は多目的トイレが増えてきて案外困らないこと。キャンプ場のような施設で共同生活する時がむしろ困り、入浴や部屋割りで周囲に気を遣わせてしまうことが悩ましいこと等々、私は初めて聞くことばかりでした。
それにしても、教会の仲間たちは、キャンパーの子どもたちでさえも、留架をありのまま受け入れ、不要な気遣いを一切せず、必要なことだけを当たり前に気遣っていた様子が印象的でした。また、留架が卒業した神学校での受け止めについて、信仰の敬虔と実践を旨とするきよめ派の神学校が戸惑いから受容へと変わっていったこと〔〕。そして、LGBTQで悩みを抱える者を支援し、特にクリスチャンに対して理解の深まることを目指して働きかける、彼が主宰しているミニストリーについても知らされました。私にとってはなるほどと思うことの連続で、性的少数者とのほぼ邂逅と言える経験を違和感なく過ごし、彼を理解し受け入れることが少しはできたかもしれないと思いながらそのキャンプでの奉仕を終えたのです。
新たな出会い直しを通して
どういうわけか翌年も、留架が参加する同じキャンプのスピーカーとして招かれました。彼と再会し一緒に過ごせることが一つの楽しみでもありました。二回目の集会のことだったと思います。私は旧約聖書の創世記から創造の秩序と罪の起こりについて、特に男と女、性についての切り口で語りました(正確に記憶していないのですが)。その集会からほどなくして留架から、先ほどのメッセージについて応答をさせてほしいと頼まれ、私は喜んで分かち合いの時を持ちました。メッセージにとても感動したとはいかないまでも、恵まれた感謝と質問のようなことだろうと私としては思っていました。
予想とは違って彼は静かな調子で、しかし真剣に私に切り込んできたのです。「今朝のお話をLGBTの中高生が聞いたとして、どう感じるだろうかと考えたことはありますか? 僕だったらきっと悲しかったと思います。」私を責めたり、私の話を批判したりというのとはまったく別の、それは、「この世界と私たち人間についての理解を、みことばを通して新たな扉を、私たちにも開いてほしい」との強烈な迫り、そのようなものでした。
彼はある意味私への信頼と敬意を込めて、聖書が語る性について、結婚観について、同性愛を禁じていると見られる聖書箇所について、彼の理解と聖書解釈を真正面から熱く分かち合ってくれました。それは私のメッセージに対する今までの誰にもかなわないほどのいのちがけの応答、たましいからの体当たりの応答でした。
私は彼の持つ理解のすべてを飲み込めたわけではありません。特に、神が最初の秩序として性を男女に限らない多様なものとされていたということ、それゆえにいわゆる男女以外の結婚もあり得ると聖書が語っていることについて、私自身すぐに確信できるものではありません。その代わりに私は性の聖書的な理解について考え続けることをし始めました。それは私が、LGBTQについてフルに寄り添いつつも聖書的な確信については答えが出ていると、ある意味割り切れていたところから、その答えをいったんペンディング(留保)にすることへと動かされたことを意味します。
いのちの輝きへの応答
しかし、最大の変化は留架のように葛藤を抱えながら真剣に歩む性的マイノリティの方々が、私にとって寄り添いフォローすべき存在から、心底敬意を表すべき存在になったことでしょう。二回目のキャンプの後も、私は留架と心からの友として関わり続け、語り合う機会を持つようになりました。彼から自分の身に起きた経験、自らの性について見つめ考えたこと、そして聖書から示された理解や経験、それら一つひとつの話を聞かされた時から、私の奥底で通奏低音のように常に響いているものがあります。難しいながらも一言で表すならば、それは「いのちが輝いている」ということばになります。
話の切り口はいろいろではあっても、留架は結局自らのいのちについて真剣に、そして勇気をもって分かち合ってくれているのであり、その結果私は彼から信頼と愛をいつも受け取ることになるのです。それは教理の話でも、LGBTQ理解の話でも、“いわゆる証し”ですらなく、生々しくも貴い彼の「いのち」を分かち合ってくれていることなのです。留架にとって、いや誰にとっても自らの性はいのちのように大切なものであり、いのちと直結しており、いのちそのものでもあるからです。
ひとりの人が自分のいのちについて、真剣にいのちがけで語られたことに対して、私たちはどうするのでしょうか。落ち着いて話を聞きながら、どのように諭してどのように導こうかと考えるでしょうか。優しく話を聞いて、癒しと回復のためにお祈りしてあげるでしょうか。あるいは、それは歪んでいる、壊れていると突き付け、不自然だ、間違っていると、手に“石”を取ろうとするでしょうか。留架から話を聞く時、私にはそのような気にはまるでなれず、ありのままそれを聞き、そのままいのちに触れさせてもらう、それだけであり、少なくともそこから以外に始まりませんでした。
しかも留架は単にいのちについて語っているわけではなく、自分の性について正直に包み隠さず分かち合っているのです。私たちはLGBTQではないからと言って、それでは自分の性について、自分が抱えている性の課題や葛藤について、自らの性の傾向や性癖について、果たして正直に話すことができるでしょうか。どのような事柄であっても自らの性について勇気をもって真摯に話そうとする人に対して、私たちは敬意を払いもしないのでしょうか。つまるところ、LGBTQは罪だと考えようが考えまいが、“ノーマル”であろうがなかろうが、自分の性〔〕はどのみち罪と汚れといびつさをまとっていますと、誰もが告白せざるを得ないのではないでしょうか。自分の性に誠実に向き合い、人として真剣に歩もうとする留架の姿に、私は心からの尊敬を覚える一人の友です。
イエス様の眼差しに倣って
おわりに、ヨハネの福音書に記された二人の者に対するイエス様の姿に目を留めたく思います。一人は「姦淫の場で捕えられた女」であり(8章)、もう一人は「生まれたときから目の見えない人」です(9章)。一人は実際に罪を犯した人であり、もう一人はハンディキャップを抱える人と言えます。私たちは両者を区別して考えますし、イエス様の扱いもそれぞれだと思うでしょう。
しかし、イエス様はそれを超えて両者を等しく敬意をもって人として扱われ、等しく優しい眼差しを向けられています。堅くも深い両者に対するイエス様の敬意とあわれみ、その確信を私は受け取らざるを得ません。LGBTQが性としてそもそも罪を内在しているのか、癒され回復を願うべき病やハンディキャップのようなものなのか、はたまた自然な秩序ある性の多様なあり方なのか、簡単には答えに導かれないでしょうし、議論もしばらくはかみ合わないことでしょう。そうではあっても、ひとりの人に対するイエス様の姿から目を離すことだけはしてはならないと、肝に銘じる思いです。
「みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)
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