洗礼式の心残り

※本記事は、まだこのHPがなかった2016年12月27日に、約束の虹ミニストリーのブログに投稿したものの再掲です。記事中の出来事・日付などは当時のものになります。


先日のクリスマス礼拝において、2名の方が洗礼を受けられました。
その様子を見ながら、僕は自分の時を思い出していました。


僕が洗礼を受けたのは、小学5年のクリスマス礼拝。当時すでに、女子扱いされるのが嫌だと感じていましたが、自分は男だ!と言い切ることも出来ず、一人称も一応「私」を使っていたように思います。しかし、絶対スカートははかず、立ちションにあこがれたりしていました。

両親が青年時代にこの教会で出会って結婚し、僕は生まれたときから毎週教会に行っていたので、教会員の誰もが「ルカちゃん」とかわいがってくれていました。それはありがたいことだったけど、性別の違和感を覚え始めてからは、その呼び方が枷と感じるようになりました。

それでも、男の子も女の子も小さい頃はみんな「ちゃん」づけなので、まだよかったのですが、大きくなればそれはやはり女子を呼ぶ呼称として決定的になって行きます。それに加えて、教会独特の文化として、「兄弟・姉妹」と呼び合うことがあります。


もちろん普段は普通にあだ名やさん付けなど、関係に応じた呼び方ですが、集会中に呼ぶときは○○姉妹と呼んだり、教会内の印刷物に掲載する時に○○姉と書いたり。これは、神の家族だからということで親しみをこめて何の悪気も無く続いてきた文化なのですが、トランスジェンダーにはこれがきつい。

普通に「さん」付けならいいのに、「ルカ姉妹」と呼ばれてしまう・・・
そのたびに、心がチクッと痛み、でも相手を責める事も出来ず、まだ自分のセクシャルアイデンティティも確立されてない頃はそれを説明することも出来ない。

そしてよりによって、喜ばしいはずの洗礼式のときに、「主よ、どうかこの姉妹を祝福し・・・」と 牧師に祈られるのを聞きながら、僕はとても悲しくなってしまったのです。
自分の人格が否定されているような苦しさ、誰か別の人のことを言われているようなむなしさ。


もちろん、牧師は僕の性自認など知る由もないのだから、罪はありません。まだ社会的にも、LGBTに関する理解はまったくと言っていいほど広がっていなかった時代です。

洗礼を受けてからは、この「姉妹・兄弟づけの呼び方」が事あるごとに僕の心をくじいてきました。 僕は、教会で育ったようなものだから、それでも基本的には教会にいるのが楽しかったし、居場所としては感じていられました。

でも、ある程度の年齢になったトランスジェンダーの人 (特に、性別移行が済んでいないもしくは性自認をカミングアウトしていない)が教会にいらしたら、皆にとってはこんな、些細なことに見えるかもしれない理由で、もう二度と来たくないと思ってしまうかもしれません。

おまけに、思い切って自分の性自認について話してみたら、
「大丈夫、ちゃんと【戸籍の性別】に見えるよ!」、
「自分の性別を受け入れられるように祈るね」、
ひどい場合には「聖書のここに、『男は女の服を着ちゃいけない』って書いてある」だの、
「神様とちゃんと向き合ってないから 神様に造ってもらった自分を受け入れられないんだよ」などという言葉が返ってくるのです。
残念ながらこれが、多くの日本のキリスト教会の現状だと思います。

同性愛者・両性愛者にとっても敷居の高いキリスト教ですが、トランスジェンダーにとっても、教会は自覚無く扉を閉ざしてしまっているのです。


このことを知って、牧師から率先して、教会でのこの風習をやめましょう!と、改革してくださった教会も中にはあります。でも、そうでない限り、教会に通っているトランスジェンダーの人が自ら 「これこれの理由でやめてほしいのです」とは、とてもじゃないけど言い出せないのが実情ではないかと思います。

クローゼットの人であればカミングアウトせざるを得なくなりますし、カミングアウトしていても、「自分ひとりのために 教会全体のことを変えてもらうなんてワガママと思われないだろうか・・・」と萎縮してしまうでしょう。

現に僕も、カミングアウトした上にこのミニストリーのことも教会内でPRしたりしていますが、それでも、この風習について訴え出るには なかなか踏み出せていないのです。


でも、先日ひとつ、勇気を出して踏み出したことがあります。

牧師にお話があって、時間をとっていただいた時、最後に祈ってくださったのですが、その中で「姉妹」と呼ばれてしまったのです。以前も説明して姉妹と呼ばないでほしいとお願いたことはあったのですが、ご高齢なのでうっかり昔からの呼び方が出てきてしまっただけなのだと思います。

いつもなら、心の中でため息をつきつつ、「神様はちゃんとわかった上で聞いててくださるから気にするんじゃない」と自分に言い聞かせていたのですが。その日はどうしても最後の「アーメン」を言えませんでした。

それで思い切って、「すみません、先生、『姉妹』と言われるとどうしても自分のことだと思えないんです。兄弟とは心情的に呼べないのであればせめて、名前で祈っていただけませんか」と、訴えました。

すると先生はもう一度同じ祈りを、 「ルカさん」で祈ってくださいました。

そして祈りの後、「ふだん何かで性別を書かなければいけないときはどうしているんですか?」と聞かれたので 「どうしても戸籍と同じに書かなきゃいけないとか、病院などで生物学的な性別が必要な時でなければ、たいがいは男と書いています」と答えると、「教会内で『兄弟』と呼んでは差し支えありますか?」と 仰るので、「むしろその方が嬉しいです! そうしたらほんとうに、ここが居場所だと心から思えるようになります」と答えました。

するとニッコリ笑って 「ルカ兄弟」と、初めて、呼んでくれたのです。


きのう洗礼式を見て、 ズキンとした痛みがよみがえった時には忘れてしまっていたのですが、この記事を書きながら、このときの嬉しさを思い出すことができました。

ここまで思い切って訴えることができたのは、これまでの関係性とか、僕の性格とか、いろいろな要因が絡んでいます。誰もがこうすれば絶対うまくいく、だからカミングアウトしよう! とは口が裂けても言えません。

でも、僕の場合は、今まで「どうせ高齢の牧師だし、わかってくれるもんか」などと決め付けて、長い間ちゃんと説明しなかったのだから、わかるようにならないのはある意味当たり前でした。

1回や2回で理解してもらえなくても、諦めないで訴え続けたい。

そして、神様に「助けてください! あの人(たち)に理解してもらいたいですが、怖くて話せません。勇気をください! 知恵と言葉、 チャンスをください!!」と、 思いっきり祈りまくる!

これに尽きるかと思います。
すると不思議なように、タイミングが与えられたりするのです。

それでも言えない! でも誰かに聞いて欲しい、わかって欲しい・・・という方は、ぜひ約束の虹ミニストリーまでお便りくださいね^^

お話をうかがって、一緒に祈ったり、何かできることがないか考えるお手伝いをさせていただけたらと思います。


約束の虹ミニストリー

性的少数者と共に祈るキリスト教ベースの活動、 『約束の虹ミニストリー』のホームページです。