レビ記に見る律法と神のこころ
先日お知らせした約束の虹のイベント「もう怖くない! あの聖書箇所 レビ記編」にTeshima Isaiah先生が来て下さり、その後もいろいろ質問に答えて下さったので、そのお話をまとめました。
今回はレビ記の
「あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。」18章22節
「男がもし女と寝るように男と寝たなら、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼 らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある」20章13節
という個所が同性愛者を断罪するためによく使われ、当事者も恐怖や罪悪感を感じる部分であることから、どうとらえたらいいかというテーマで話しましたが、この箇所の解釈にとどまらず、トーラー(モーセ五書)全体についても考える機会になりました。
「まずはじめに、聖書テキストの学び方として、ユダヤ聖書解釈の歴史を重んじる⽴場は、昔のテキストを昔の⼈がどの様に学んだかということを⼤事にして読みます。昔の人は巻物で読んでいました。現代⼈がどこからでも読める本の形の聖書を現代の価値観に合わせて資料分析で分断して読む読み⽅(近代の聖書学)とは違い、巻物の形を想定して読む事が解釈の⽂脈となります。最初から最後まで順序通り積み上げるように読むことが大切で、⾔葉の出てくる順番が意味を考える上で⼤事になります(推理⼩説を順序バラバラに読まないのと同じ)。
レビ記もトーラーの流れの中でとらえることが大切です。11章は食物に関する規定。汚れた動物を食べる事と、死骸に触れることが戒められています。12章は出産、13・14章はツァラアト、15章は隠しどころからの漏出に関して汚れとされる状態と、そのきよめ方が書かれています。
漏出については男性器からのうみなど病的な液体、漏出を病む人の唾液や触れたもの、健康な男性の精液、性交後の男女の体、女性の月経血や不正出血などが汚れているとされ、水で洗い、一定時間他者と接触しないよう示されています。これらに共通してみられるのは健康の問題です。今よりも衛生状態が良くなかった時代で死骸や皮膚病や体液を介して伝染病が広がる事は命にかかわる問題だったでしょう。出産や生理で弱った女性は休む必要もあるでしょう。そしてこれらはきよめる方法が記されている汚れです。続く16章、17章は贖罪日とささげ物に関する規定です。
そして18章は性交の禁忌となります。近親姦、生理中の女性との性交、姦淫、子どもをモレクにささげる事、22節の男性同士の性交、動物姦に対する戒めが続きます。15章に引き続き、体液の付着による感染、男性器の挿入によって身体が傷つく可能性があること(女性同士の性交については記述がないが、女性と動物との交わりは禁じられている)が挙げられています。
"あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。"18章3節
これらの行為はエジプトやカナンの⾵習に従うな、彼らの法を⾏うな、という⽂脈にあります。
"あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である。"18章5節
順番として身体からの漏出、伝染していく不浄が先に出てきて、次にエジプトやカナンの⾵習から区別される⾏動が求められる。一般的に性的な不品行というのは他にもあるわけですが、一つ一つの良し悪しよりも異邦人の風習から距離を置き、聖別されて神のものとされることが重要です。それはすなわちイスラエルが⽣きるためです。
"あなたがたがその地を汚し、その地が、あなたがたより前にいた異邦の民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないようにするためである。"18章28節
つまり、カナンの地の諸⺠族は忌み嫌われる⾏為のゆえに、その地から吐き出される。イスラエルは⾃分の⽣命を守りたいなら、これらの法を守れ、生きろという強い推奨のニュアンスを含んだ命令となっています。
続く19章は十戒と共通する戒律が多く見られます。
"あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。" レビ記 19章18節
共同体であるイスラエルに、どう愛し合い群れを守っていくかを教えています。
20章は子どもをモレクにささげる事に対する強い戒めから始まる切れ目のない一つのパラグラフで、霊媒との淫行、父母をののしる事、姦淫、近親姦、13節に男性との性交、母娘を妻とする事、動物姦など性に関わることのみならず、イスラエルという群れを保つための戒律と言えます。
18章は親が子に「ここに近づいたらいけないよ」と教えているかのようですが、19章は共同体に向けてどう愛し合うか、20章は寄留者を含めたイスラエルという群れ全体に対して死に値する行為とその刑罰があげられています。18章22節と20章13節の違いがそこから説明できるかと思います。レビ記で命じられてることは、巻物が進むにつれ、階段を登る様に個人の関心や義務から、集団の義務へ、そしてその集団の秩序を乱す者への刑へと繋げて読むことができます。そこで繰り返し語られるのは「わたしはあなたがたの神、主である」という言葉。イスラエルの人々はその度に巻物のはじめから神である主が自分たちにしてくださったことを思い出します。その愛に励まされて共に階段を登っていく。しかし弱い私たちは自分の身を聖別することはできません。
"あなたがたはわたしの掟を守り、それを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。" レビ記 20章8節
きよめて下さるのは主なる神なのです。
しかし、これらの律法はそもそもユダヤ⼈のみの法規です。⾮ユダヤ⼈にとっては問題とならない。ユダヤ⼈以外の⼈は、汚れたものに触れても汚れない。また汚れを他の⼈にもたらすとは考えられていない。ここは⼤事なポイントです。
"『あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。" 出エジプト記 19章6節
トーラーは祭司の王国、聖なる国民であるイスラエルに語られている。とはいえ、トーラーを無視するのではなく、根底に流れる神の御性質をくみとることが大切だと思います。
神さまは聖なる方。聖性とはいのちそのもの。きよくなるとはそこに近づくことです。聖なるものであれ、というのはこれらを守っていのちに近づけ、生きろ!ということです。反対に汚れるとは死に近づくこと。しかし、世界に最初から汚れているものはなく、汚れてもきよくなりいのちに近づくことはできるのです。
”あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。”18章22節
この「忌み嫌うべきこと」と訳されているヘブライ語はトエバーで、18章の他の性的不品行には使われていない言葉です。トエバーの語根、タアブは欲望するということで、これは人間のサガであり、動物の自然であり、これを否定することは神さまが作った自然を否定することでもあります。
神さまは⼆つの書物を書きました。その⼀つが聖書であり、もう⼀つが⾃然です。神の⾔葉を知り学ぶために必要な⼆つの筋道、または⼆つの⽂脈といえます。ユダヤ・キリスト教の聖典の中で考えるジェンダーの向こう側には⾃然があり、定義されたことが自然とマッチしないなら、自然から定義を見直すべきです。どんなことであれ、~するべき論の前に、自然が存在していること、聖書はそれを神さまがつくられたと主張してますので、私たちは、神さまなぜ、この様に作られたのか教えてくださいと文句を言ったり、その親心の深さを後で悟ったり、地上の経験を重ねながら、聖書を読んでいくことは大切なことだと思います。イエス様の言葉の意味や考えもそこから見直してみる。誰かを大切に思う行動や行為は、またその逆も、消し去ることのできない事実なのです。人々のあるがままには、そうである必要の意味があるわけで、それを否定しない。心と心が結びついている純粋さは、マジョリティにもマイノリティにも、どちらにもある。レビ記の古代の戒律は、現代においてそのまま守られてもいない。それはそれで意味があることと受け入れています。」
☆かな 感想☆
巻物として聖書を読むということは新しい発見でした。万葉集の頃と今とでは同じ言葉でもあらわす内容が違うように、巻物の前の方と後の方では言葉の意味が変化しているそうです。トエバーも元になる言葉は "そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく…"(創世記 3章6節)の「慕わしく」ですが、エレミヤ書のあたりでは、異邦人のような行いに対して「忌み嫌われる」と訳されてよく使われています。欲することは人間の原動力でもあり悪い事ではないが、神さまと反対方向に強く働けば偶像礼拝になるということではないかと思いました。
「聖書はすべて神の言葉、私たち一人一人に向けて語られている」と教えられてきて、旧約律法もできる範囲で守るべきと思っていたので、「そもそも祭司の王国であるユダヤ人のみの法規」と聞いてなんだかホッとしました。ユダヤ人は口伝で伝えられたトーラー、つまり多くの解釈や習慣から、その戒律の従い方、やり方を学んでいるし、代々受け継がれて、子供は親の背中を見ながら当たり前のようにその中で育つので、非ユダヤ人が聖書を読んでそのままやろうとしても無理だと聞いて納得でした。その時代においてどう律法を守るかということはずっと話し合われていて、今もアップデートし続けているそうです。非ユダヤ人である私たちはイエスさまの血、いのちに覆われて聖なるものとされ神さまに近づくことができる。その恵みを改めて感謝しました。
神さまのご性質としての「いのち」というキーワードは私にとってわかりやすいものでした。「愛」より具体的にイメージしやすい。人や聖書の言葉に振り回され、なにが正しいのかわからなくなって心身が病むことがありますが、まずは自分と周りの人のいのちを守ることを最優先して生きていいんだと知り、無駄な罪悪感から解放され、物事を判断する基準を得たように思いました。形ではなく中身。例えば男女の夫婦という形におさまっていても、一方的な性交で心や体が傷つくこともある。男性同士でも当時の立場の弱い男性に対する支配的な行為とは違う、衛生と健康に配慮した対等で愛のある関係は、生き生きとした幸せな人生をもたらします。
神は⼆つの書物を書いた。その⼀つが聖書であり、もう⼀つが⾃然である。いまここにいる個性豊かな一人一人は神さまが造られた自然で、それが定義に合わないなら定義が見直されるべきでしょう。定義に苦しみ自殺する人が出るなら、それこそいのちに逆行する汚れです。教会は道徳やモラルを守ることがきよいことだとする思い込みから解放され、イエスさまと共に神の愛といのちに向かう群れでありたいと思いました。
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