求めよ、さらば教会の外でも与えられん

(テキサス)

私は生まれた時に割り当てられた性は女性で性自認も女性です。将来は女性のパートナーを持ちたいと思っています。性的な行為に対しては嫌悪というほどでは無いものの欲求は無く、アセクシュアルなのだと思います。

母は福音派のクリスチャンなので、私は子供の頃から日曜は教会に通い日曜学校にも行っていました。

母は恋愛に対して厳しい態度をとっていました。子どもの時、家に来た客に「好きな子はいないの?」などと聞かれた際、嫌な顔をされたのを覚えています。その様な話題が出ることさえはばかられる雰囲気でした。私の恋愛観はそうした母の禁欲的な価値観の影響を受けた部分があるようです。今は以前と比べて柔軟になりましたが、性的な事を汚らわしい悪いことと思う感覚が染み付いているように思います。

大学に入った時、周りの学生が恋愛にばかり関心を寄せて大騒ぎすることに、嫌悪感や苛立ちを覚えました。例えば新入生の宿泊イベントで、女性の部屋に男性の先輩を呼んで騒ぐ同級生を見て違和感や非常識さへの怒りを感じました。大学の性規範に馴染めなかったのです。

私がその悩みを教会の女性牧師に相談すると、牧師から恋愛や性についての学びのセッションに誘われました。

男女が一対一で真剣に付き合い、どちらかが未信者ならクリスチャンになるよう助け、結婚し、sexをするのは良いことだと。私が過剰に恋愛や性行為を嫌悪しないように、けれども周りに流されて軽々しい行動をしないように導こうとしたのだと思います。

教会の教える性規範は、大学生のそれよりむしろ私には合っていたので違和感はありませんでした。しかしむしろ問題を強化することになりました。大学で生きづらさを覚える私には何の解決にもならなかったのです。

そもそも教会に影響を受けた母の影響で積み重なってきた問題の解決を大元である教会に求めるのはおかしな話です。問題を客観的に捉えたり本質を見極めることができないからです。

医学や心理学、哲学など、教会の外には多くの学問があり専門家がいます。そうしたアプローチによって家族や自分のことを客観的に認識することは助けになります。しかし若い時はそのことに気が付かなかったのです。子どもの時から教会につながっていたので、悩みがあったら教会に相談するのが当たり前になっていたのでしょう。

自分が現在アセクシュアルであるのは、性的な事柄を不浄とするクリスチャンの母に育てられた影響が大きいと思います。しかし、教会に行けば男女の結婚や出産が推奨されているわけです。純潔と「産めよ増やせよ」のギャップは私にとってあまりにも大きく、落とし所を見つけることができませんでした。そのような枠組みに無理なくおさまることが出来る人もいますが、苦しみを感じたときに教会で性的な悩みを口にするのは難しい場合もあります。

私は大学で宗教学を学びました。イスラム教に深い関心もあります。何事も外側から見た時、他のものと比較した時、その良さを再発見したり問題点を見出したりするのではないでしょうか? 内側ばかり見つめているとバランスを崩します。人間の造り主である神さまが悩みの種になってほしくは無いのですが、人間が神のことばを解釈し伝えるときに人間の価値観が混ざり、人を苦しめることもあるように思います。

セクシュアリティの問題に限らず、クリスチャンの心の苦しみは、罪の意識などクリスチャン独特の考え方に根ざすものも多いので、教会の外に助けを求めることは重要です。神は教会の外にも、どんなところにもおられるのです。

約束の虹ミニストリー

性的少数者と共に祈るキリスト教ベースの活動、 『約束の虹ミニストリー』のホームページです。