導かれた正しい道の途上で
(杉本)
生まれてから30年以上、私は「女性」でした。体が女性だから、戸籍上も女性だから、というのもありましたが、「男性ではないから」女性として生きていた、というのが正しいかもしれません。今、私は信頼できる相手にはこう言います。「どっちでもないんよ」。私は、Xジェンダーです。
30年余り、女性であることに何の疑いもなく生活していたわけではなく、精神的、身体的な違和感はありました。それでも「Xジェンダー」「中性」「ノンバイナリー」という言葉を知らなかった頃の私は、自分を女性だと思って生きていました。そう生きていくしかない、と思っていたのかもしれません。
「恋愛対象が男性だから」、ということも理由の一つでした。私は男性に恋愛感情を抱くことが多く、「この人に好きになってもらうには女であった方がいい」と思っていたからです。しかし、それと同時に「性的対象として見られたくない」という思いもありました。たとえば好きな人がいて、その人と仲良くなった頃にいつもこう思っていたのです。「このままこの人と付き合ったら、私はこの人とセックスをするんだろうか。それはいやだな」と。もちろん、クリスチャンとしての「婚前交渉はしたくない」という意思もありました。けれども、それ以上に相手と性的な接触をするということ自体が想像できない、したくない、という気持ちが強かったのです。ですが周りは「好きならして当然」という空気で、それならアクションを起こさない方がいいのでは、と恋愛には消極的になっていました。
やがて「アセクシャル」というセクシャリティがあることを知り、さらに「ロマンティック・アセクシャル」、恋愛感情は持つけれども性的欲求は持たないというセクシュアリティを知った時。そして「Xジェンダー」「ノンバイナリー」という言葉があることを知った時。私は「ああ、私の在り方にも誰かが名前を付けてくれていたのだ」と思いました。もちろんすべての人のセクシュアリティに名前が付けられて、分類化されることは不可能だと思います。神さまは、同じものなど一つもない尊い存在として私たちを造られましたから。ですが私にとって、「Xジェンダー」「ロマンティック・アセクシャル」はまさに、「しっくり」と来たのでした。
クリスチャンである両親にカムアウトした時には、最初は「男でも女でもない」「性的欲求がない」ということがうまく伝わらなかったようで、なかなか話は嚙み合いませんでした。しかし折を見て何度か話し合い、今では「ひとまず納得した」、という段階にまで持ち込めたと思っています。そして感謝なことに、私の所属する教会の牧師も、男女どちらでもない、という私を受け入れてくれました。
2022年、私は所属教会で結婚式を挙げることが許されました。この牧師にとってはおそらく初めての、セクシュアルマイノリティ当事者の結婚式の司式です。配偶者は、シスジェンダー・ヘテロセクシュアル、そして現時点ではノンクリスチャンの男性です。式文からは「男女」「夫と妻」という単語を極力省き、「新郎新婦」という言葉も使いませんでした。牧師がそのように配慮してくださったからです。「なぜそのような式にしたか」をすべて説明したい思いはもちろんありましたが、同時に「まだこの教会でカムアウトするのは早い」と思うこともあり、教会全体にはカムアウトしない形での挙式をすることにしました。ですから、式に出席した中で、私のセクシュアリティを知るのは私と配偶者、私の家族、牧師先生、そして数人の友人のみでした。
式のおわり、挨拶をする際に詩編23編を参列者の前で朗読しました。「主はわたしの魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる」(詩編23:3 日本聖書協会共同訳)の御言葉のとおり、神さまは罪人である私の魂をご自分の元へ引き寄せ、聖霊で潤してくださり、正しい道を備えてくださいます。その「正しい道」の途上に、私の持つこのセクシュアリティの自覚、そして私の信仰とセクシュアリティを受け入れてくれる配偶者との出会いがありました。結婚する前、私は配偶者に「結婚即セックスレスやけどかまわんか」と訊きました。すると配偶者は「それは大前提で付き合ってる」と返してくれました。LGBTQについて、そして聖書について、彼はまだわからないことが多いようです。けれども、私という人間を理解してくれようとしてくれたこと。そして、神さまを知ろうとしてくれていること。このようなパートナーが与えられたことは、本当に神さまの恵みと言わざるを得ません。
今はまだ、公的にはカミングアウトできていない状態です。ですが、現在私の教会の青年会では、約束の虹ミニストリーの「なんで教会がツライのか考えてたら出来た性理解のためのブックレット」を用いて、LGBTQの学びを進めています。この学びを進めていく中で、まずは青年会で自分のセクシュアリティについて話せたら、と思っています。セクシュアルマイノリティを「マイノリティとしない」、そんな教会が建てあげられていくことを祈ります。
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