いつも、わたしのとなりには・・・

(あきら)

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

(創世記2:18)

まだ幼いころ、自分のセクシュアリティが他の多数の人たちと違い、フツウではないようだと自覚したときに感じたのは「孤独」でした。人と違うというだけでなく、恥ずかしいこと、悪いことで、誰にも言ってはいけないことなのだと思っていました。なぜなのでしょう。

それでも、自分では覚えていないわたしの子どもの頃の様子を母がときどき思い出して話すのですが、女の子のようになりたそうだったというエピソードがいくつもあります。セクシュアリティを隠すなんていうことはできないものなのかもしれません。成長してからは女性になりたいとは全く思いませんから不思議です。男性に惹かれるから自分は女性なのかなと思っていたのだとしたら、それも固定化された男らしさ女らしさの規範が幼いころからずいぶん影響を受けているのだなと思います。

自分自身でも自分が何なのかわからないのに、世間の「男らしさ」の基準から外れていたため「オカマ」などとレッテルを貼られてからかわれたりもしました。母が習っていた日本舞踊を見て、自分もやりたいと申し出て、小学校に上がる前から10年続けました。踊りの中では男にも女にも、こどもにも老人にも、動物にもなれました。自由にトランスする感覚で解放されて、心のバランスを保てていたように思います。熱心に続けましたが、日舞をやっていることは学校の人たちには言えませんでした。秘密を持つということが、人との距離をとり、口を重くさせ、緊張で体のバランスも不安定にさせました。

好きだった日舞も子どもの習いごとの領域を過ぎると、本格的に続けるという道も難しく、中学卒業と同時に離れてしまいました。その頃には自分はいわゆる「男性同性愛者」なのだろうと自認するようになりました。

高校入学をきっかけにキリスト教に触れることになり、友人に誘われて教会に通うようになりました。もし神さまがいるのならば、誰にも言えない自分のセクシュアリティの違和感や悩みも神は知っているだろうし、神に言うくらいしかできんわ!と思ったら、礼拝が新たな心の拠り所になりました。

幸いなことにわたしが通った教会では「同性愛は罪だ」などと正面から言われたりしたことはなく、教会の人びとは信仰熱心でしたがあたたかくて、他の人を断罪したり差別したりするようなことはありませんでした。むしろ教会で、体や心に病や重荷を負う人びと、社会生活が困難な人びと、苦しい経験をされた人びととも出会い「神は人を分け隔てなさらない」という聖書の言葉を教会生活で体験的に学んでいけたのは恵まれていたと思います。

それでもカミングアウトをするなど考えられませんでした。公言したらどうなっていただろうか。セクシュアルマイノリティ当事者たちが、教会でこそ傷つけられ断罪されたという悲しく辛い経験を聞くたびに、他人事とは思えず心が痛みます。そして自分は親しい友人たちには伝えているものの、今でも教会では公にカミングアウトをしてはいないから、神と隣人の前に正直でなく、ずるいのかなと後ろめたい気持ちになることもあります。

でも「言ったらいけない/言わなければいけない」は同じことの裏表です。「隠されていることで明らかにならないものはない」と言われる神の前で、今は話せないままでいる人も、または今話さなければ!と思った人も、愛をもって迎え入れられることが大切だと思います。

15歳で出会い、わたしを教会に導いてくれた親友から、30歳になった時に手紙が届きました。ゲイだというカミングアウトの手紙でした。大学を卒業してから遠方に離れてしまいましたが、彼は誠実に伝えたいと思ってくれました。思春期の一番悩んでいた時に、まさかすぐ毎週隣に座って一緒に礼拝をしていた友人が同じ悩みを持っていたとは!ゲイである自分でさえ、まさか自分の身近に性的少数者がいるなどと想像さえできなかったのです。「ありがとう、お互いもっと早く言えればよかったね」と返信しました。すると彼は言いました。「自分は当時聞かれても否定したと思う。自分が自分を受け入れるまでに時間がかかったから」と。

カミングアウトするとは、他の人に言葉にして伝えることで、自分自身に対しても自分はそうなのだと告白することでもあります。言葉にする度に。信仰を告白することを大事にするキリスト教会こそ、「わたしは〇〇です」と人が告白する言葉を大切に受け止め、そして自分で言えるようになるまで待つことも大事にしたいと思うのです。

どんなに悩み、つぶやいて訴えても、神はわたしを同性愛者から変更されることはありませんでした。でも、孤独だと思っていたけれど、身近なところに友を与えてくれていました。彼以外にも、後から本人や家族が性的少数者やアライだったとわかった人たちが多くいます。カミングアウトをいつしたにしても、神はそんなわたしを孤独にしないように必要な助け手になる人びとを近くに居させてくださっていると思います。それは配偶者ばかりでないと思うのです。

だから、わたしも誰かの善い隣人でありたいと思います。わたしは、神がどうしてわたしをこのように造られたかはわかりませんが、神はわたしを独りにはしておかれない、ということは信じたいと思っています。

約束の虹ミニストリー

性的少数者と共に祈るキリスト教ベースの活動、 『約束の虹ミニストリー』のホームページです。