2月17日の虹ジャム「人権」回のリポート

「セクシュアリティと信仰」がテーマの交流会「虹ジャム」。何でも話せるテーマフリーの回もあれば、テーマを設けてお話しする回もあります。2月は、虹ジャム参加者からのリクエストによって、参加者それぞれが考える「人権」についての語り合いが実現しました。

とても有意義なトークが出来て、(いつものことですが)全然話し足りない💦 という声も上がったこの回のようすを、個人情報を伏せた記事にてご報告いたします!

今回の報告記事は、約束の虹ルカが聞き書きした議事録を元に、参加者のソラさんがまとめてくださいました! ご協力に心より感謝申し上げます。


ルカよりコメント:

約束の虹ミニストリーは、多様な考えの人が安心して自分の話を出来る場を守ります。

「虹ジャム」は、皆で議論してひとつの"正しい"結論を出すことではなく、皆が自分の考えや経験を分かち合い、対話する中で新しい気付きを得られるような集まりです。

この記事を読んで、同意できない意見があるかもしれません。

でも、自分と違う立場や意見を否定したくなった時こそ、人権とは何なのか? という今回のテーマについて一層真摯に向き合うべきタイミングなのではないか。

皆さんが語ってくださったことを読み返しながら、そんなことを思いました。


リクエスト者のコメント:

「大前提として、勉強不足。イメージとして「福音と人権」「正しさと愛」は両立できているんだろうか?という疑問がわいている。それを自分の言葉で丁寧に説明できるか怪しいので、このテーマを教えてほしいと提案しました」


議事録より


<人権について思うこと>


・マイノリティの権利の運動に関わる中で、「人権」という言葉が使われるときにかえって起こる弊害の側面も見てきたから、普段は「人権」という言葉に批判的なスタンス。しかし今回は多様な考え方を聞くチャンスなので楽しみ。


・誰でも、幸せになりたい、成長していきたいという気持ちがある。差別とは、そうした他者の可能性を阻害することなのではないか。


・私は障害を抱えていて、ある時お医者さんとの面談の中で「こういう人権侵害があった」と訴えても「あなたは障害でサポートが必要だから仕方ないでしょ」と言われた。別の人が「その医師は人権が何かを理解していない」と憤ってくれた。

 自分の人権が守られなくなってみないと人権が何かわからない。


・人権とは法律の上での概念だと思う。我々が持っている近代憲法に言われている人権は聖書がなければ成立しなかったのではと思う。

 そこには人は神の形に造られた、だからどの人も大切という前提があることを忘れてはいけない。


・「(人権は)そんなに考えなくても空気のようにあるものだ」と思っていたが、女性として生きてきて、本来守られるべきものがはぎ取られてきたか、またどれだけ多くの人たちがはぎ取られてきたか知ってきて愕然としている。

 これから、「どこでどんな人たちが踏みにじられているか」を敏感に感じ取ってダメなものはダメだ!と言っていかなくてはと思う。


・クリスチャンとそうではない人の分断。そこにある人権問題。

 教会の中の、住んでいる地域や経験してきた痛みに対してのプライバシーが守られていないこと、そういう人権侵害が最近気になっている。


・人権と人命こそ第一だと思っている。聖書がそれらと齟齬があったら、聖書が、神が、イエスが間違っているのだ、と考える立場です。


・子供が産まれた時にある場面で、「なぜ人を殺していけないのか」をどう教えるか? 法律で罰せられるから? 子供にわかるようにどう説明したら? と考えるようになった。

 宣教師が「神様が愛して作ったから殺したり奪ったりいじめてはいけない」と証しとして説明するのを20年くらい前に聞いた。

 その中で、(人権という単語を)辞書で調べたら簡単に書いてあるけど、私たちがどう日常の生活の中で生かしていくのはどういうことか、神様に愛されている存在として考えていきたい。


・最近、教会名簿の男女分けをやめることに理解を示しつつも、疑問を持っている。

 それは本質的な解決になるだろうか?と。


・子供の頃神戸にいて、小学校でクラス内に文化として普通に部落差別、いじめがあった。

 両親も家庭の中で差別用語を連発していて当たり前のようだった。

 子供心に違和感があったけど自分事にならないまま大人になってしまった。


・世の中的にも、政治の中でふつうに基本的人権の侵害が行われている。

 教会の中にも人権侵害があると、離れてみると見えてきた。


・札幌地裁で同性婚訴訟の担当弁護士をした方の話を聞く機会があった。

 法律婚でどれだけの権利と義務と社会保障を受けてるか。そしてそれに気づかないでいる。

 パートナーシップ制度を使っても(得られる権利は)かけ離れている。

 「その人の可能性を阻害しない」ということであれば、同性婚するしないは選択であっても、同じ権利が与えられるべきなのではと思う。

 じゃあ教会の中でそれを言ったらどうなるか?

 自分は「与えられる権利」にフォーカスしたいけど「聖書的に」って方にずれてしまうだろう。

 私たちが与えられているものが与えられない人たちに目を向けない教会はどうなんだろう?


・クリスチャンがノンクリスチャンのために救われるように祈る時、クリスチャンの方が良い場所にいて「こちらに来れるように」という上から目線を感じる。
 私は、同じ、神様に愛されている立ち位置だと思っているけど、祈りの表現によってそういう上からな感じが出ることがあって、いちいち指摘することはしてこなかったけど、考えてみる必要があるんじゃないかと思う。


<教会と人権という切り口が出てきました。みなさんの教会の人たちは人権についてどう考えてますか?>


・教会員の60代の方がトランスジェンダーの後藤香織司祭の講演に来ていたり、政治家の差別発言に憤っていた。


・あえて勉強しなくても、クリスチャンの倫理観として(差別的なことがあったら)「こんなの良くないでしょ!」という違和感を持てるのだと思った。


・普通に話していれば差別しようみたいな人はいない。

 ことさらに人権に反対する人もおらず、侵害があれば義憤に燃える人が多いのでは。

 クリスチャンとノンクリスチャンの区別は福音派で特に出やすいかも。


・「合理的配慮をする」ってことと「差別しない・人権を守ること」はひとつなんだとわかった。

 たとえば、選挙で、「誰にでも投票権があります!」としていても、階段の上に投票所があったら実質的には自力で歩けない人たちが排除されていることになる。


・契約って、お互いの権利を侵害しないために交わすもの。でも当事者が、契約にまつわる様々な能力(読み書き、判断、理解するなど)を持っている前提になっている。

マイノリティの権利の運動に関わる中で、人権という時の「人」に誰が含まれているか、という問題があるんだとわかったのが、自分が人権という概念を使わなくなってきた理由。

 そのように、人権というものが特定のマイノリティを常に排除している現実がある一方で、だからといって人権というものを全面的に手放すのも違う。

 すでに世界がそれを大事なものとして法的なことを執り行ったり政治運動を繰り広げてるんだから、そういうのを全部なきものにしてしまったらマイノリティが生きづらい社会に加担してしまう。

 それぞれのぶち当たった壁と経験を持ち寄って考えることが大事なんだと、今の話を聞いて思った。


・聖書と人権について考えるようになったのは、ある団体のことで「何が本当に正しいのか」と考えるようになったのがきっかけ。

 LGBTを聖書を使って裁くのが本当に愛なのか、両方の主張を聞いて考えてみようと思った。


・『LGBTと聖書の福音』(いのちのことば社)でLGBTクリスチャンの証しを読んで初めて、その人たちの悩み、自分が想像したこともないような悩みを知った。

 「ずっとセクシュアリティに悩み、何年も祈り続けても変わらなかった」と。

 そういうことを一部の福音派では全く教えられてこなかった。

 「そういう人たちは性的に逸脱してる人たちで罪を犯している」と聞かされてきて、当事者の気持ちを全く聞かずに主張されていることだったと知って、自分はクリスチャンなのになんて考え方をしてきたんだと思う。

 福音派は福音派の良さがあると思うし自分もそこで救われてきた面もあるけど、こと人権ということに関しては、なぜか聖書のことばを字義通りに捉えてしまい、そのことばの意味について自分たちの解釈が間違ってるんじゃないかということを全く疑問視してこなかったんじゃないか。

 神のことばに忠実でありたいという思いが人を傷つけるという怖さを実感。それを周りの人たちにどう分かち合ったらいいのかが今悩んでいるところ。


<感想>


・今日は皆さんの率直なもやもや、人権に対する熱い思いを聞けて良かった。


・今日のために少し論文を読んだりして勉強した。

 キリスト教内外問わずジェンダー・セクシュアリティに取り組んでる人は「人権」という概念を使ってる人が多いしその人たちのことを仲間だと思ってるから、そのことについて考えずに来たのは怠慢だったと反省。


・人権と言っても意味が絶えず変えられてきて、イラク戦争のように、人権の名のもとに外国を無差別攻撃したり、ヘイトスピーチを野放しする言い訳に使われてきて、人権という概念の背後には色んな思惑や意味合いが常に緊張関係をもって存在している。

 自分を人権と分離するんじゃなくどう使うかを丁寧に考えていかなきゃなと、皆さんが自分や誰かの苦しみを目の当たりにして人権の大切さに気付いたという経験が印象的だった。

 人権の枠組みが補間・サポートされる必要があるとしたら、「他者からの呼びかけにこたえる」という視点。現代の西洋的な人権概念は個別的な人間観、すべての国にそれを押し付けると問題が生じる。

 自分とは違う他者の声に常に耳を傾け応答していく、かかわりを作っていくことによって、今使われている人権概念を批判的に検討しなおしていかなきゃいけない。


・自分も、「障害者」ということばで守られることもあれば、もやっとすることもある。

 (教会で否定的な意見に触れても)LGBTであることの何が問題なのかわからなかった。

 ある時にほかの教会の牧師が「うちの教会では●●兄弟、姉妹をやめて〇〇さんというふうにしています」と話すのを聞いて、所属教会の牧師に言ったら答えが返ってこなかった。

 その後、「あなたがどのような考えをしていても個人の考えだからいいです。でも教会が混乱するので教会の中では言わないでください」と口止めされたが、未だにそれはどうかと考えている。

 今日は教会における人権について考える良い時間でした。

・自分の人権をしっかり握って幸せを追求している一人一人が、ほかの人を幸せにできる。


・主権が各当事者にある。誰かに権利を与えてもらうものではない。

 聖書の力関係の中で、クィア理論を聞かせていただいたりして、みんな何かの当事者、いろんなマイノリティ性があるということを常に考えないといけない。

 自分が知らない間に人の足を踏んづけているかもしれない。人権ということを考えているとそういう色んな事が出てくる。


・メディアでは、「こういう配慮がまだ社会に足りてないんだ」ということばかり。

 人権て断片なんだと、感じる。断片だけど、声を上げる人に耳を傾けて応答してくって事はすごく大事だし、それが神様の愛だし、そういう断片の人権を繋げておっきな愛にしてくれるのがイエス様の愛だなと思う。人間にはなかなかできないけどこれからも考え続けていきたい。


・みんな違ってみんないい、って習ったはずなのに実態は全然違う。

 理解が出来てないが故の差別してしまうし、自分がしてることは当然、だってみんなしてるし、と考えもしないことがあまりにも多いんだということを思わされている。


・人権という大きなテーマの中のひとつのトピックだけでシリーズ化してほしいくらい幅広かった。


・皆さんの発言がどこかで繋がってる気がする。

 信仰、宗教を信じてなくても人は何かを信じている、それが正しいと思っている。自分が信じているものは正しい、だから自分は正しいことをやっているって。

 牧師の教えは正しい、聖書の解釈は正しい、そういうことを意識もしないでしみ込んでいて怖いなと、疑いもしないで福音派にいた頃と比較して思った。知らないってことは怖い。


・自分が意見を述べることで排除されたり干されたりすることを祝福とすら思えている、その心境に自分はまだ到達できていない。


・他者への想像力、相手の気持ちに完全にわかることは出来ないけどわかろうとすることが人権を大切にすることに繋がるんじゃないか。

 悩み続けることが大事なんだろう。


・親として子供の人権を侵害してて、即やめることもできないという限界性を感じる。


・「大きな主語」ということを考えた。

 上に立ちたいという欲、誘惑が人間の根っこにあるんじゃないか。その誘惑を認めないで聖書のことばで正当化してしまうのが恐ろしい。

 タテ社会に便利な価値観、たとえば嫁は不満を言わず耐えて働け、下の者は口答えするな、みたいなことが聖書を利用して強化されている。

 「忍耐と赦し」に逆らって自分のために生きることが不信仰じゃないかと思ってしまう。でも、それを主張してみたりすることで他の人も「あ、言ってもいいんだ」と思えるような存在になりたい。


・「福音と人権」についてはずっと思いめぐらしていきたい。

 「ああ私は差別文化を作り出せる立場にいるんだ」ということをものすごく厳粛な恐れをもった。


<参考>

話の中で出た、安田真由子さんの聖書講座のリンク です。 

https://queerpocobible2.peatix.com/?utm_medium=web&utm_medium=%3A%3A%3A10%3A3407810&utm_source=results&utm_campaign=search


まとめを担当したソラさんよりコメント:

子供のころから感じてきた差別、あるいは偏見など子供だからこそ感じた視点、感性なのかもしれません。それぞれのアイデンティティーがあり、今、日々の中で思う人権について思うこと、考えていることなど分かち合いました。

2時間という限られた時間では、到底語りつくせないことを実感しました。

経験、痛みについて率直なお話を聞くことができました。それぞれの環境、立場で感じること、思うこと、本当に良い分かち合いの時となり、感謝でした。

新聞やテレビといったメディアでは、毎日のように〝多様性〟〝マイノリティ〟〝LGBTQ〟などの言葉を耳にします。日本における人権問題は遅れをとっているということも耳にします。教会という場では、なおのこと率直に話題とする事がタブーだったと感じています。そのような、残念な現実の中で理解を広めようとされていることは、大きな前進です。

今回の『人権』をテーマとした学びで、他者を理解することが出来なくても、まずは傾聴し、相手の痛みを知ることから始まるということ。とても大切だと感じています。

虹ジャムは安心できる場所であり、大好きな仲間のいる場所です。

「虹ジャムのみんな、大好きだよ!!心からのハグを!!」と叫びたいソラです!(^^)!

参加報告と、私ソラの感想でした。虹ジャムに関心をお持ちの方、参加してみたいな…。と思われていらっしゃる方、本当に素敵な場所です!ぜひ、ご参加くださいね!

約束の虹ミニストリー

性的少数者と共に祈るキリスト教ベースの活動、 『約束の虹ミニストリー』のホームページです。