はるかな希望を共に見つめて ー「普通」ってなんだろうー

前回に続き、日本バプテスト女性連合の機関誌『世の光』の「心に鍬を入れられて」、YWCA職員の臼井一美さんによる原稿の第二回を掲載させていただきます。

前回の記事はこちら⇒【はるかな希望を 共に見つめて ーはじめにー】


人間は「男」か「女」に生まれてくる。出生時に医療者によって決められた性別は生涯変わらない 。一〇代の時に思春期が訪れ、異性に恋をし始める。性的な欲望は男性にしかなく、女性にはほとんど無い。恋愛を経て二〇~三〇代で役所に届け出て結婚する(双方クリスチャンであることが望ましい)。そのあと二~三人の子どもをもうける。結婚した相手とは許しと愛を持って死が二人を分かつまで関係を続ける。相手の死後は恋愛しない。

 これがキリスト教界が持ち続けてきた「普通」です。しかし「句点(。)」ごとに、一つ ずつ、すべて、「想定されていない」ゆえに、誰かを排除し人権を侵害しています。今あなたが、これらが「誰をどのように排除しているのか」に関して考えが及ばないとすれば、残念ながら、もしくは不本意にも、あなたはこれまで「善意」で、もしくは「無意識のうちに」誰かを傷つけてきた可能性があるということになります(もちろん「考えが及んでい る」としても傷つけている可能性はあるわけですが)。

 明文化されて来なかったこの「普通」は、そこから「逸脱」した時に顔を出します。この中の一つについて考えたいと思います。

そのあと二~三人の子どもをもうける

 子どもがいないと「お子さんはまだ?」、一人目を産んだら「一人じゃ寂しいから二人目が必要」、四人目からは「多すぎない?」…。これらの言葉はセクシュアルハラスメント( 性的暴力)ですが、教会の中では、ご存知のように、いまだによく聞かれます。どれもわたしには苦しくなる言葉です。身体的・精神的・経済的・物理的などさまざまな理由によって「妊娠し出産することができない 」人は、おそらく予想されるよりずっと多いでしょう。これらがすべて整えられることは、現代の日本社会の中ではむしろ奇跡的なことだと思います。

 また、「 妊娠・出産」は基本的に「喜ばしいこと」として教会の中で受けとめられてきました。けれども、その人にとって手放しで「喜ばしいこと」なのかどうかはわかりません。例えば、その人は性的DV(ドメスティック・バイオレンス、親密な関係(パートナー・恋人・カップル・親子など)にある/あった者から振るわれる暴力(身体的・精神的・性的・経済的など)のこと)に遭っており、その上での妊娠かもしれません。

 そして「そのあと」、つまり「妊娠は婚姻をした(もしくは教会で結婚式を挙げた)あとでなければならない」ということも、「キリスト教界の普通」です。その順序が「逆」になったとき、この事実が「受け入れられる(良い)」か「受け入れられない(悪い)」かが「他者」によって判断されることがあります。しかし「他者」はあくまでも他者であって、そのような判断はできないはずです。そもそも、なにを「喜ばしいこと」とするのかということを、わたしたちは根底から問わなければなりません。

 それから、この「普通」は、異性のカップルのみの事柄です。一つずつの「句点(。)」ごとに、これと同じか、より多くの課題があります(この例も、ほかにも課題があります) 。わたしたちはこの想定していた「普通」( 期待していたこと)を裏切られたとき、どう反応するでしょうか。心の中に沸き起こった思いが、「嫌悪」や「偏見」や「差別」に変わることはないでしょうか。

 キリスト教界は、この「普通」を神の存在と聖書の字句をさえ使って「肯定」してきました。わたしたちが「これが普通」と思うとき、ほんとうにそうであるかどうかを疑い、考え、言葉として発する前に、自らの中にあるものを探っていくことが必要です。来月も、「 普通」をめぐっていっしょに考えていきたいと思います。

【はるかな希望を共に見つめて ー「分断」へ煽られずにー】へ続く

約束の虹ミニストリー

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