Q&A 「聖書には同性婚について記載がないのだから、教会で同性婚は挙げるべきでないのでは?」

この質問の背景には、
「教会のすることはすべて聖書に基づいているべきだ」
という前提があると思われます。

しかし現実に、教会で現在行なわれている物事の中で、直接的に聖書の記述を基にしているものはそれほど多くはありません。

この質問に合わせて教会での異性婚についてだけ見てみても、その「よくあるキリスト教式結婚式」のプログラムの中で、「聖書にこのような形で執り行うように書かれているから」と明確に示せるものはほぼありません。

旧約聖書に連綿と書かれた律法の中に結婚式のやり方は書いていないし、人間として生活して活動しておられたイエスも、カナでの結婚式に出席する際、水をぶどう酒に変える奇跡は起こしても、式の挙げ方そのものには何も言及していません。

指輪の交換、新婦が父に伴われて入場し新郎の元へ行く、バージンロード、花嫁のベール、賛美歌を歌う、牧師が説教する・・・

これらは、教会がその伝統の中で良かれと思って築き上げてきたスタイルですが、聖書にそうしろと書いてあるからそうしているわけではありません。

ですから、聖書に記載がないからというだけで、教会での同性婚を禁止することはできないのではないでしょうか?

もし、聖書に書かれていないことは何一つしてはいけないというのであれば、コンピュータやインターネットなどの使用もやめなくてはいけないでしょう。

「禁止していないことはなんでもしていいなんて言い出したら、とんでもないことになる!」でしょうか?

いいえ、イエス様は、個別具体的なことが罪か否かと線引きして守ろうとするそれまでの宗教的価値観ではなく、愛に基づいた行動こそが大切なのだと教えられたのです。愛がないなら、どんな正しそうに見えることも意味がありません。

多くのキリスト教会は教会はそれを理解しているからこそ、たとえば上記のコンピュータやインターネットも、現代に即した様々な伝道、隣人援助のツールとして用いていますよね。

さて、教会で同性愛者には異性愛者と同様の結婚式を挙げさせないとすれば、その動機はなんでしょうか?また、動機はよかれという思いであっても、当人たちにとってそれは愛として伝わるでしょうか? 「教会は自分たちの関係を、存在を認めてはくれないのだ」と感じさせ、失望させ、かれらが教会を去ることは、結果的に愛の実を結んでいると言えるのでしょうか。

当事者のいないところで机上の「あり/なし」で議論することをやめて、まずは謙虚になって当事者の話に、思いに、徹底的に耳を傾けることが、いま求められていると思います。

約束の虹ミニストリー

性的少数者と共に祈るキリスト教ベースの活動、 『約束の虹ミニストリー』のホームページです。