すべての人がありのままで

▲前回に続き、日本バプテスト女性連合の機関誌『世の光』への寄稿として執筆したものを、許可を頂き掲載いたします。第三回は、約束の虹ミニストリーメンバーのかなによる原稿です。


すべての人がありのままで

約束の虹ミニストリー・メンバー かな

私は女性ですが、子どもの時から女の人に恋愛感情を抱(いだ)いていました。今と違ってインターネットなどない時代でしたから、情報や出会いの機会もなく、そのことは誰にも言わずに大人になり、男性と付き合うようになり結婚し出産しました。

その後、イエスさまを信じクリスチャンになり、バプテスト連盟に連(つら)なる教会に通うようになり、女性連合の活動に加わりました。私がバイセクシュアルであるということを教会で話すつもりはありませんでした。もともと隠していることが当たり前でしたし、とりわけ教会では決して人に気づかれぬようにしなくてはならないと思っていました。なぜなら、「同性愛は罪だ」と教会で何度も聞かされていたからです。

私は礼拝以外にも平日の昼行われるバイブルスタディなどの集まりに出ていました。子どものいる主婦ばかりの会でした。

私もその一人であったので、同性愛者だとは誰も思わなかったと思います。

そのような集まりでは「LGBTQ+」といった言葉は自分たちとは無縁の遠い世界のことでした。

年配のリーダーは事あるごとに、世間の多様性を認める風潮は世の終わりのしるしで、サタンの影響だと教えていました。トランスジェンダーの子どもに対する制服やトイレ使用への配慮ですらそう捉えていました。牧師はセクシュアルマイノリティに関する間違った知識を教会員に教えていました。

私は、もし「カミングアウト」でもしようものなら、そのような嫌悪や無理解が自分に向けられると思い恐ろしくなりました。誤解や認識の偏りを指摘してもまるきり聞いてもらえず、怒られたり、憐(あわ)れまれたりするのではないかと思いました。

恐らく変わるように祈られるだろうことにも抵抗がありました。今の、ありのままではダメだと言われるようで。変わることを望まれているのに変われなかったらガッカリされてしまう。焦りと重圧を感じるだろうと想像し、不安になりました。

ある日、牧師が説教の中で、自分が見聞きした一つの例を根拠に「イエスさまを信じたら同性愛は治る」と言いました。その時、それに当てはまらない私は、ここにいるはずのない人間なのだと悲しくなりました。けれど同時に、セクシュアルマイノリティであり、なおかつイエスさまを信じ愛している私の友人たちを思いました。顔を思い浮かべることのできるみんなの信仰が否定されている。それは違うとはっきり思いました。

でも私は何も言えず、そのあと教会を去りました。

教会員の方がたは私を愛してくれましたが、それは本当の私ではありませんでした。

型にはまるよう自分を演じ続けることに疲れてもいました。イエスさまは「互いに愛し合いなさい」と言われましたが、愛し合うために、まずはその場所にとどまる必要があります。ありのままの自分で無理なく安心してい続けられることが互いに愛し合うためにはどうしても必要なのだと知りました。

自分のセクシュアリティのことは口に出せない人が多く、誰がどんな悩みを持っているか外側からはわからない、ということを知っていただきたいと思っています。

すべての人を受け入れたイエスさまの愛が教会に満ちあふれ、すべての人がありのままで安心して教会で礼拝できるようになることを心から祈っています。

(日本バプテスト女性連合の機関誌『世の光』 連載「心に鍬を入れられて」2022 12月号掲載)

約束の虹ミニストリー

性的少数者と共に祈るキリスト教ベースの活動、 『約束の虹ミニストリー』のホームページです。