はるかな希望を 共に見つめて ーはじめにー
前回に続き、日本バプテスト女性連合の機関誌『世の光』の「心に鍬を入れられて」シリーズです。第四~第六回は、YWCA職員の臼井一美さんの原稿もお寄せいただきましたので、感謝して掲載いたします。
第一~第三回はこちら▼
【はるかな希望を共に見つめて ーはじめにー】
昨年( 2022年)四月に、本当に久しぶりに『 世の光』を最初から最後まで読みました( すみません…)。「 心に鍬を入れられて」というこのコーナーのタイトルに「 痛そう…」と思いました。けれども、その痛みに耐えてなお「痛くても知りたい/考えたい/一緒に分かち合いたい」ことが、ここには書かれているのだなぁと思いました。この度、三ヵ月にわたって、「 ジェンダー」と「 セクシュアリティ 」という事柄に関して「わたしたちの教会の課題とは何なのか」をご一緒に考えていく機会を与えられました。どうぞよろしくお願いします。
このことを考えていくことは確かに「 痛み」が伴います。なぜなら、これまで漠然とあっ た「普通は」(「 一般的には」「常識では」「当たり前」「こうするべき」など)と向き合い 、それをいったん脇において、「わたしは」どう思うのか、「 わたしは」どう考えるのか、「普通」という言葉が「誰をどのように」排除してきたのかを思いめぐらす作業だからです。どれだけ自分が「普通」を強固に持ってきたかを気づかされますし、これを崩すのにはずいぶんチカラが必要です。
イエスが出会った人たちの中にいたとして描かれている「律法学者」といわれる人たちは、この「普通」を崩せない人たちでした。「こうするべき」が、目の前で起きていることよりも上に来て「あなたが悪い」と考えてしまった人たちです。だからイエスが伝えたかっ た「普通を疑い、当たり前を壊す」ことが伝わらなかったと思います。
わたしたちはイエスの生き方を懸命に知ろうとしています。だからこそ今の時代にそして「今の教会」にある「普通」を疑うことをしていきたいと思うのです。
「ジェンダー」とは社会的文化的性のことです。単純に言うと、あなたが「他者(もしくは社会)から見られている性別とその性別につけられている役割やイメージ」のことです。この「ジェンダー」はキリスト教会の中で、どのように「機能」してきたでしょうか。
教会は、この世界には「女性」と「男性」しかいないということ(性別二元論)や、「女性」と「男性」が結婚することが神の祝福であるということ(異性愛主義)や、神を「父」として崇めるからこそ「父や男」がリーダーなのだということ(家父長制)や、家族がみなキリスト者であることが祝福であるということ(家族主義)や、牧師は「男性」の仕事/「男性」は力仕事/「女性」は料理や掃除をする(性別役割分業)などを、聖書の言葉を用い、神の名を借りて「あと押し」してきました。
その結果、男性牧師によるDV(ドメスティック・バイオレンス)に遭い、苦しんでいる人が声を上げられず、親による暴力に遭っている子どもの声を信じず、同性を愛する人たちやトランスジェンダーの人たちの人権を認めず、女性たちの声をないがしろにしてきました。「キリスト教会は差別と暴力に満ちている」と絶望する日も少なくありません。
けれども、わたしたちはそれでも、この闇に満ちた教会という場所でなお、光を探したい と願ってい ます。教会が「イエスが指し示した神の教会」であるならば、そこに光が与えられているはずであり、その光を探している人びとがいるからです。だから、ここにまだ希望があると信じたいと思っています。その想いこそが、教会を変えていくチカラであると信じています。
おそらく「善意」で進めてきてしまった「あと押し」を、今一度、一緒に見直していければと願います。「痛い」と感じながらも一緒に歩んでいくことができますように。
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