「右手に規範、左手には隣人愛。さて、あなたはどうしますか?」〜 とあるゲイのクィア神学的思索 〜(寄稿)

 さまざまな規範があります。規範というのは「◯◯べき」というルールで、個人的なものから組織や共同体に規定されているものまで多種多様で、無数の規範のコードが私たちの社会を覆っていて、さまざまな作用をもたらしています。「結婚は異性愛カップルのもの(異性愛者だけに結婚の特権が与えられるべき)」「心と体の性が一致しないなんて幻想だ(心と体の性が一致しているべき/一致していないなんて妄想に陥るべきではない)」というような性的少数者を圧迫する規範的コードがあります。「アウティングすべきでない」とか「LGBTなどのカテゴリーにくくらないで一人一人を見て」というような性的少数者の側からの規範の要請もあります。キリスト教内にも規範はあって、たとえば「キリストによる以外に救いはない」とか「結婚前に肉体関係を持ってはいけない」などなど、、、。

規範は必ず排他性・抑圧性を伴うと言えるでしょう。規範は「その規範に沿う者/沿わない者」の間に境界線を引いてしまうからです。規範に適合しない/できない人は「逸脱者」や「異端」「変態(クィア)」などのレッテルを貼られ、排除されたり周縁化されたりしてしまいます。そして、人間(社会的動物)である以上、規範なしには生きられないというのもまた現実です。言葉や法律、共同体などの私たちの生活の基盤は規範の上に成り立っています。さまざまな規範のコードが複雑に交差し、絡み合い、時に衝突し、ある人々を痛めつけ、ある人々の生命を脅かしてさえいる、そのような社会の只中にキリスト者は生きています。そのような社会の只中に教会は立っています。

三つの問いにキリスト教は取り組み、応答し続ける必要があるのではないでしょうか。

1、キリスト教規範の内実は何か。

2、キリスト教は「規範」そのものをどう定義し、どう向き合うべきなのか。

3、キリスト教はその規範をどう人々に適用すべきなのか。キリストの愛と恵みに満ち溢れた規範的生き方・あり方とはどんなものなのか。

クィア神学はともすると「セクシュアリティにまつわる神学、その中でも特に性的少数者の立場を守るための弁証学的アプローチ」、つまり一つ目の問いに応答する神学とみなされることが多いのですが、そのような理解はクィア神学の大切なポイントを見落としてしまっていると思います。クィア神学は、人間存在に不可分な、そして神学と切っても切り離せない規範、それが措定する規範のコードにそぐわない人々を「ノンクリスチャン」「異端」、そして「変態(クィア)」としてカテゴライズし、排除し、周縁化するキリスト教規範に批判的眼差しを向けるものだからです。その眼差しはセクシュアリティに限定されず、キリスト教の歴史、神学理論、信仰実践全てに向けられます。クィア神学は、神学体系の中の一部分を担うことにとどまらず、神学にとって最も根本的な思考・理論・実践の枠組みに変革をもたらす可能性を持っている、と私は感じています。

私は曽祖父、祖父、父みんな(福音派の)牧師という、生粋のクリスチャンホームで育ちました。福音派キリスト教の規範にどっぷり浸かって生きてきた、ということだと思います。キリスト教の規範の措定の仕方、そして自らの規範意識を疑問視し問い直す機会が教会生活の中でしばしば与えられましたが、特に二つの出来事が心に残っています。

一つ目はある日の祈祷会で牧師が語った「イスラム教はご利益宗教だがキリスト教はそうではない。」という言葉。「イスラム教はご利益宗教だから信じるべきではない/キリスト教はご利益宗教ではなく福音を土台としているから信じるべき」ということだったと思います。それを聞いた時私は疑問を禁じ得ませんでした。「そうは言っても、キリスト教だって「天に宝を積む」とか「天国へ行く」とかご利益宗教的な側面があるんじゃないの?じゃあ、自分は何をもって、キリスト教はイスラム教より優れていて、信じるに値するものである、と言い切れるのだろう。」その時私がしばらく考えた末に出した結論は「これは自分には到底理解できることではない。神さまの領域のことなんだ。たとえ私がわからなかったとしても神さまがそう言われたのだからそうなのだろう。そもそも、自分のような人間が神さまの真理の奥義をうかがい知れると思うことこそが思い上がりではないだろうか。」というものでした。

二つ目は、私が導いていた聖書の学びのグループに来たある女性との出会いでした。私の友人に連れられて来た彼女は「私、自傷癖あるから」「心の病持ってるから」「風俗嬢やってるから」と当たり前のように言い放ちました。私は内心とても焦りました。「聖書のスタンスは明確に婚外交渉や性売買は罪と定めている。でもそれをそのまま彼女の人となりを知らず信頼関係も築けていない状態で伝えるのが正しいとも思えない。さて、自分は彼女とどう向き合えばいいんだろう。」(現在ではセクシュアリティやセックスワークだけでなく、罪についての見解も大きく変わりましたが、、、。)彼女と「キリスト教的規範」の間で内心右往左往していた私がとった方法は、彼女のプライバシーに立ち入りすぎないようにしながらも、彼女の日常について問いかけ、彼女の応答に耳を傾ける。そして、そこに神学的・道徳的見解は決して差し挟まない、というものでした。その時の経験は私の心にモヤモヤを残して、そしてしばらくして彼女が自らの命を絶ったと聞いてからはなおのこと、「自分はあの時別の仕方で彼女と向き合えたのではないだろうか。」との思いを強くしました。

この二つの出来事は規範がもつ排他性や抑圧性を自分に垣間見させてくれた経験だったのだ、と思います。「イスラム教は信じるべきではない(キリスト教を信じるべき)」という規範によって切り離される他者と私。「性を売り物にすべきではない」という規範によって、同じ空間にいるにもかかわらず、表面的には仲良くおしゃべりしてるのにもかかわらず、引き裂かれる彼女と私。その排他性・暴力性への気づき、そして、それらへの違和感を私は心に抱いてクリスチャン生活を送っていました。

そして、5年前にあの出来事が起こってしまいます。現在のパートナーとの劇的な出会い、彼との交際の始まり。それまで意識してこなかった自分のセクシュアリティと対峙することを余儀なくされました。そこで経験したのは、規範によって私自身が真っ二つに引き裂かれるということです。「クリスチャンはゲイであるべきでない。」という規範によって「福音派クリスチャン」である私は「ゲイ」である私から引き裂かれ、私は自分を自分としてどう保っていけばいいのかがまったくわからなくなり、「自分のクリスチャン人生は終わった」と感じ、本当に苦しい日々を送りました。(彼との出会いがどのように劇的で、どのような変化を私にもたらしたのかはまた機会があればお話しいたします。)

しかし、その苦しみの中で大切なことを学ぶことができたとも思います。一つは、規範によって守られる側に立つのか、それとも裁かれる側に立つのかは紙一重の違いで、自分の立場性は自分のコントロールの範疇外であるのだ、ということです。人間は社会的動物であって、それはつまり他者との出会いなしでは存在し得ないということ。そして、他者が他者として自分の人生に立ち現れてくる限り、その他者との出会いの先に何が待ち受けているのか、それは誰にもわからないのです。今日まで特定の規範に守られた私が、明日その同じ規範によって打ちのめされている、ということが大いに起こりうるということです。もし、5年前に今のパートナーと出会っていなかったら、私は今も「キリスト教的性規範」に守られ続けて生きていたかもしれません。

苦しみの中で学んだもう一つのこと、それは、異教徒とみなされる「イスラム教徒」や風俗嬢として偏見や差別と戦いながら生きていた「彼女」と自分の置かれている場所が地続きであるということです。それまでは規範のコードによって引かれた境界線によって自分は彼女たちとは隔てられているのだと思っていました。「私はクリスチャンでキリストの側、彼女はノンクリスチャンでこの世界に染まっている側」というように。彼女と私は社会の構造や規範によって、そして、他者との出会いによって人生を翻弄されうるという人間存在の脆弱性によって同じ場所に立たされていたのだということに気づきました。それだけではありません。私が当たり前のものとして受け入れてきた社会的・文化的・キリスト教的規範のコードが彼女を圧迫していたこと。自分が彼女の痛みや苦しみと別の世界に生きているという幻想を抱いていたというだけでは片付けられない、彼女の苦しみに対する自分自身の加害者性を突きつけられたのです。「精神疾患」のスティグマ化をすすめ、彼女のような人たちの生き方の選択肢を制限している価値観や社会の仕組みの中に存在していることに私は無自覚でした。セックスワーカーの方々に私は軽蔑と冷たい憐れみの眼差しを向け続けてきました。キリスト教的規範を隠れ蓑に、私は教会の内外を問わず「他者」と向き合ってこなかったのだ、そして彼女ら/彼らを愛してこなかったのだ、と自分が自分の規範に裁かれる事態になって初めて気付いたのです。「キリスト教的」規範に引き裂かれて初めて、自分が「キリストのように」人々のもとに足を運び、向き合い、愛してこなかったという悲しい現実が示されました。

一人の人間として、一人のキリスト者として、一人のゲイとして、人間存在・社会の規範性、そしてキリスト教の規範性とどう向き合うべきなのか、今も考えています。社会の中で抑圧され、周縁化され、変態扱い(クィア化)され、命を強奪されている人々にキリストの愛と恵みを届けるために、社会の規範・教会の規範とどう向き合うべきか、これからもクィア神学をはじめとする信仰と理論の探求と実践の中で模索していきたいと思っています。立場や思想の垣根を越えて、一人でも多くの仲間とその旅路を歩んで行けたら嬉しいです。

あの時、勇気を出して聖書の学びの会に来てくれた彼女にどんな言葉を投げかけられたでしょうか。ふと教会にやってきたレズビアン女性とどう向き合うでしょうか。誰にも助けを求められずにあなた/私の前に現れてきたゲイ男性にどう話かけるでしょうか。社会やキリスト教内の偏見に苦しんできたトランス当事者にどう届いていくでしょうか。今日、「他者」にどのように歩み寄り、どのように声をかけ、何をすることができるでしょうか。一緒に考えてみませんか?

(ダン)