Q&A 「聖書には性同一性障害については書かれていません。クリスチャンとしてどのように理解すればよいでしょうか?」

(執筆 ルカ)

性同一性障害(僕はトランスジェンダーという呼び方を好みますが)の当事者である僕にとって、支えとなっている聖書のことばは次の3つです。

●ルカ11:40「外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。」

→僕は自分自身の性別を自分で男と「決めた」ことはありません。それでもあらがえない「自分は男だ」という感覚は、自分が女の体で生まれることを選べなかったが歴然とそうであるのと同じくらい、神様からそのようにつくられたのだとしか思えない感覚なのです。そして、からだを造られた神様は僕の心も造られたのだから、自分をそのように感じる感覚も神様から与えられたものだとして受け取れるようになってから、やっと精神が安定しました。

●マルコ12:25「死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」

●ガラテヤ3:28「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

人は創造の初めは男と女、生殖の基本であるオスとメスという構造をもって造られましたが、神の似姿としての人間は、男女という対だけで表されるのではなく、互いに愛し合うすべての関係に反映されているのではないでしょうか?

そして、イエス・キリストの再臨後の新世界ではもはや性別が関係なくなるとありますから、さしあたり現在の肉体にあって社会的にどちらの性別として生きているかは、大した問題ではないと思います。

男女による区別が大きすぎる現代社会にあって、自分の自認と異なる性別で扱われ続けるストレス、不便は、そういう経験のない人には想像のつかないほど莫大なものです。そのような社会に少しでも適合し、生きづらさを軽減するために、戸籍の性別を変えたり周りの人からの扱いを変えてもらったり、また自身の身体上の性別に対する違和感を軽減するためにホルモン投与や手術を受けることは、視力の悪い人がそのままで不便しながら暮らすよりもメガネやコンタクトを使用したりレーシック手術を受けて生活の質を向上することに似ていると考えています。

そのようにして精神的な余裕が出てこそ、ようやく社会生活ができるのです。教会生活や、主に仕える生き方を願う上でも、そのハードルとなる性別違和を解消するために様々な方法を取ることは、クリスチャンとして間違いだと僕は思いません。

もちろん、当人の信仰により、生まれた時に与えられた身体的・社会的性別にそった生き方を選択することもひとつの素晴らしい選択だと思います。

しかし、神様に逆らうために性別を変えようとしているわけではないのですから、トランスジェンダーがどのような性別で生きるかの選択を、周りのクリスチャンは裁かずに尊重していただきたいと思います。

ただし、ホルモン治療や手術による身体的・精神的リスクはとても大きいので、これらは誰にでもお勧めする方法ではありません。結論を急がずに、信頼できる医師とともにリアルライフエクスピリエンス(移行した性別で社会生活を送ってみる試行期間)などの段階をしっかり踏んだ上で、リスクやコストをちゃんと理解して踏み切ることが大切です。

そのためにも、周囲が当人にどのように接するかがとても重要です。頑なに身体の性別で扱おうとするなら、かえって、「体の性別を変えなくては自分は望む性別で生きることができない」という思考に当人を追い詰めてしまうことになるでしょう。