性被害からの回復①「虹に出会うまでー40年の荒野を超えてー」
(ロイ)
※※※性被害についての記述があります。読まれる際はご注意ください※※※
夜が怖い。まるで布団から体が浮いてるみたい。脱力できない。うとうと眠りかける。ダメ、油断は禁物。だって、あの人が来るかも知れないから。
誰にでも強いられた沈黙がある。こんなにも生きづらいのに、世の中より教会の方が「性」について語れない。言語化されない感情は、記憶の海に沈む。発酵し堆積し、体も重い。そして演技することを覚える。クリスチャンらしく振舞えば、とりあえずの居場所は得られる。でも仮面は壊れる。不眠は何十年も続いている。もうどこにも属せないのかな。そんな時、この虹ジャムと出会ったのでした。
ここでセクシャルマイノリティの仲間ができました。生きづらさは変わらない。でもひとりじゃない。性被害の回復には時間がかかります。とてもデリケートで、ここで語れることはほとんどない。でも孤軍奮闘は終わった。暗い世に、仲間が灯台のように輝いている。木漏れ日みたいな勇気をくれる、みんなが確かにここにいるのです。
10才から、それは始まった。本当は気持ち悪かった。でも何とか合理化しようとした。この行為は、自分も望んでいるのだと思い込んでいた。
20才になって、自助グループにつながった。でも性のことは話せない。身体的暴力を受けてきたことは、少し話せた。同時に教会にもつながった。洗礼も受けた。熱心に布教するようになった。クリスチャンは純潔を守るべき。そう信じることで、心を守った。本当はトラウマで、性のことを考えられなかっただけだった。
30才で婚約。すると教会で突然、性について教えられた。急に性を強いられたかのような違和感を覚えた。
そして50才で乳がんになった。どうして全摘なの?性について揺さぶられ、傷跡から膿があふれた。その時イエスさまが心の扉をノックしているのが分かった。
「心を開いてほしいんだ」
「自由になってほしいんだ」
厳しい人生。聖書だけが友達だった。新約聖書のガラテヤ人への手紙には、こんな言葉がある。
「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
ガラテヤ人への手紙 2章19~20節より
父は初潮を迎えた私に
「大人になったんだな」
そう言って、胸を掴んできた。その胸を全摘する。それはイエスさまとともに、十字架につくことではないだろうか。そして私はイエスとともに復活し、新しく生きる日々が始められるのではないだろうか。
聖書には神がどんなお方か、啓示されています。エデンに住めなくなった人に、なおも語る神。モーセに律法を与え、礼拝へ導く神。士師の時代から王が治めるようになってもずっと、まるで反抗期の子を見捨てられない親のように語り続ける。でも人は神からもらったものを、壊すことしかできない。割礼派の教えもしかり。だから神は人となられた。その破壊を身に受け、十字架で死なれた。死の力を壊し、人にいのちを与えるために。あなたももしイエス・キリストの十字架と復活に自分を重ね、あなたを造られた神に信頼するなら回復が与えられる。これがこの聖書のことばの語っていることではないかと思ったのです。
手術が終わり、私は虹ジャムで語りはじめました。過去よりもっと大きくなった、イエスさまとの日々のことを。仲間はどんどん増えていきます。律法的だった私から新しい讃美があふれ、鼻歌に合わせて踊ったりしている自分に気づき、思わず笑ってしまいます。今私が生きているのは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
性被害がもたらすもの。身体が常に硬直し、過敏になること。人間不信。肝心なことを回避し、会話が表面的になること。ぬぐえない罪悪感と恥。人体への嫌悪。人格の乖離、、、。その影響は私の場合、いくつもの難病になって現れています。それとの付き合いは一生続くかも知れません。同様に「性」のことを語れないできた方々の苦労も、きっと甚大でありましょう。理解は難しいかも知れない。でもひとりひとりが異なることを知ることができたら、語ることが許される、安心な場があったら。それが願わくばキリスト教会であったら。そんなことを願いつつ、この証を閉じたいと思います。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。あなたの傷も、癒されていきますように・・・。
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