性被害からの回復②「神のまなざしを知った日」

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(ロイ)

※※※暴力被害についての記述があります。読まれる際はご注意ください※※※

冷たい金属の感触が頬によみがえる。それを打ち消すために食べる、食べる、食べる。止まってはいけない。食べるためのバイト。猛スピードで自転車をこぐ。自分でつけた傷を長袖で隠しながら走る。そしてまた食べる。道端で、公園で。帰宅後もずっと。食べて、食べて、食べ続ける日々。それが私の20代だった。

性被害からの回復を書きはじめて、今回が2回目となる。10才頃からはじまった父からの「それ」は、実家を離れてからも何度もよみがえった。生きるためには、その感触をなくすしかない。麻痺状態を作る方法は色々だ。それらの依存症はどれも苦しい。でも記憶の再現は、もっと辛い。

父からの「それ」にはジレンマがあった。子どもだから、養育されなくては生きられない。でも恐怖で眠れない。それで病が重くなる。だから実家を出られない。精神は極限状態。「あいつが死ぬか、自分が死ぬか。」それで死を願うようになった。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46:10)

という聖書のことばが好きだ。人は聖書を伝えてくれる。でも闘いを止めさせ、静まりをくださったのは、神さまだなぁと思う。

父が来られない遠くに引っ越したこと。新しい人間関係。語り合える仲間。絶対に秘密を守ってくれる自助グループ。そうして少しずつ、男性恐怖から回復していった。回復は行きつ戻りつで、人に近づきすぎたり、遠ざかりすぎたりした。バウンダリーが壊れていて、危険人物とばかり親しくなる時期もあった。そんな風に何十年も練習して、自分にとっての「安心」を作れるようになった。

教会も練習の場だった。熱心な時期も、このまま行けないかも知れないと思う時期もあった。「信仰」が思考停止のための装置になった時期もあった。「感謝」で口を塞がれるように感じる時期もあった。色んな考えがあるんだな。みんな本当は苦しいんだな。過ちもたくさんあるんだな。そうやって揉まれて人を知った。聖書には女性への残忍な暴力が描かれている箇所がある。私はそこに、神のまなざしを見るようになった。

「どうして黙って見ているの!?」

何度も神に叫ぶように祈った。神が嫌いだった。それでもイエスさまは、敵であった私にさえ和解をくださった。(ローマ5:10)

あの刃物の感触を、忘れることはできない。それでもイエスさまは私が少しずつ「信じる」ということを取り戻せるように、たくさんの出会いをくださった。そして、あの十二の部分に切断された女性(士師記19:29)への神のまなざしが、私の中で変わった。それは慟哭であり、内臓がえぐられるような御霊のうめき(ローマ8:26)ではなかったか。それは世界中の理不尽へのうめきと重なる、新天新地を待ち望む産みの苦しみなのだろうか。解らない、判らない。分からないけれど、ともに叫んでくださる神がいる。そのお方が私たちに使命をくださる。だから私たちは生きている、いや生かされているんだと思うのだ。

答えは出ない。だから私たちは語り続けるのだろう。しかし何でも語れるわけではない。そこが性被害によるトラウマの難しいところである。次回は私の「語るために気をつけてきたこと」そして「相手を傷つけずに聴くこと」について書いてみたいと思う。

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