性被害からの回復⑥ 「それなら、生きられるかも知れない」
(ロイ)
それから私は数年間、引きこもった。最初の3年はトイレにも行けず、部屋には異臭が立ち込めていた。鏡を見るのが嫌だった。自分の醜さばかりが目につく。特に鼻の毛穴の汚ればかりが気になるのだ。その神経質さと言ったら、その小さな穴の数を、数えるほどだった。
そんなメンタルで聖書を読むと、大変なことになる。罪が示される聖句ばかりを抜き書きし、そこに反省文を書き込んだ。人に読まれたくないから、米粒に書くくらいの小さな字で、背中を丸めて書きに書いた。
そんなある日、私は夢を見た。かつて通っていた小学校のグラウンドに、十字架が立っていた。そこに張り付けにされているキリストが、私に向かって声をあげていた。
「この人たちの罪を、どうか赦してほしい。」
十字架の向こうには、いじめっ子たちがいた。下校中に、石を投げた子。「きもい」と男子トイレに押し込んだ子。私の机に、生ゴミを入れた子・・・。そして父もそこにいた。彼らは十字架に気づいていない。しかし私には、見えている。傷だらけで血を流し、とりなし続けるイエスさま。
私は思った。聖書は私を責めるためのものではなかったのか。「罪に気づけ」と迫るためのものではなかったのか。私はその日はじめて、「イエス・キリスト」という実存に出会った。十字架は私を救うため。それは私に恩を着せるためではなく、律法から解放するためだったのだ。
かつての私は心から、使徒パウロのこの言葉に同意していた。
「 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(新約聖書 ローマ人への手紙7章24節)
このローマ人への手紙7章でパウロは「律法とは何か」について答えています。当時パウロの宣教は、とても理解され難いものでした。あの出エジプト記などで有名なモーセの律法。その掟を守ることは旧約聖書を信じる民には必須なこと。律法によって神の民として生きる、それが彼らのアイデンティティだったのです。
しかしキリストを信じたパウロは「律法を守ることによってではなく、信仰によって義とされる」と説きました。「それなら律法は何のためにあるのか。」その疑問に答えているのがこの7章です。律法によって罪を自覚し、自分でしたくないことをしていると自覚できるとしたら、やはり律法(聖書)は聖であり、正しく、良いものである(7:12)と、パウロは答えています。その上で、神のことばに対し、自分は完全に無力だと、認めているのです。
さて私は一体何のために、聖書を書き写していたのだろうか。それは罪赦され、きよめられたいからだった。
「キリストの十字架の贖いを、信じるだけで赦される」。
頭では理解していた。しかし過去の侵入によって、何度も上塗りされる、汚される感覚に対し、私は完全に無力だった。それをぬぐうことができるとすれば、それは神による他あるまい。私は罪と格闘し、キリストに出会って180度変えられた、パウロのストーリーに耳を傾けるようになった。
クリスチャンになる前のパウロは、ユダヤ教の最高の教育を受け、律法を厳守していました。その彼に悪いニュースが届きます。何とあの、十字架刑に処せられ呪われたイエスが、復活したと伝えている輩がいる。彼らは聖霊を受けたと言い、何千人もがバプテスマを受け、共同生活をしていると言うのです。
「そんな新興宗教は許せない」
パウロは義憤にかられ、迫害をはじめます。当時の彼にとって、彼らを捕らえ、牢に投げ入れることが、神への誠実でした。しかしパウロ(別名はサウロ)は突然、天からの光に照らされるのです。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(新約聖書 使徒の働き9章4節)
これはキリストからの語りかけだったのです。パウロは変えられクリスチャンとなりました。そして律法を守らず、汚れた生活をしていると認識されていた異邦人と、ともに生きる宣教者になったのです。「汚れ」による分断を、福音によって超えたのです。
そんなパウロの格闘と、私の格闘を、重ねて考えることは赦されるだろうか。それはあまりに畏れ多い。しかし、きよさへの渇望という意味では、似ているような気がするのだ。厳格に教えを守ることによって、ピンセットでつまむように、ひとつひとつ汚れを除去していく。そんなパウロがこの結論にたどり着いたのは、驚くべきことだ。
「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ人への手紙8章1節)
「キリスト・イエスにある」これはどういう意味なのだろうか。私はあの十字架の夢を見た時、それが解ったような気がした。きっとイエス・キリストはいる。おそらく私を思ってくれている。私は今も、汚れに苦しんでいる。しかし私がキリストにあるなら、罪に定められることは決してないと、聖書に書いてある。それならば、私は生きられるかも知れない。
私はその夜、聖書を抱いて眠りにつくことができたのだった。
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