性被害からの回復⑦「教会を見つめた日」

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(リリー・ロイ)

※トリガーアラート
 この文章には性被害、暴力についての記述があります。


ある日の午後。「初めて買ったレコードは何?」そんな声がラジオから聞こえてきた。「レコード?」と若いアイドルが笑う。ふと昔を思い出す。幼い頃、ピンク・レディーの「UFO」のレコードを、買ってもらったこと。ピンク・レディーと一緒に踊るのが趣味だったのに、解散しちゃったこと。当時の大事件と言えばそれだったほど、平凡な子ども時代。大好きなテレビはドリフターズの「8時だョ!全員集合」。夜が楽しみだった。

でも生理が突然やって来て「大人になったんだな」と父に言われて、私の性は脅かされるようになった。

そんな折、おニャン子クラブ大好きな友人が「お菓子をくれるよ」と教会に誘ってくれた。聖書のお話しは難しかった。でもイエスさまを信じれば罪が赦されると聞いて、信じたいと思った。

性暴力の怖いところは、被害者であるにも関わらず、自分が「汚れている」と思ってしまうところだろう。私に触れた人は病気になるような気がしていた。女の子としての魅力を失えば、加害者の関心が離れる気がして、お風呂も避けていた。それがいじめの理由にもなった。

友人からの親しげなハグは拒否してしまうのに、団地の階段で待ち伏せしていた大学生には抵抗できない。自分を尊重できないから、大切にしてくれる人を遠ざけ、侵害してくる人は受け入れてしまう。そのためか私には、ひどい頭痛があった。それは初潮の頃からで、これを痛みというのかどうかも判らないまま、誰にも言えずにひとりで吐いていた。

やがて高校生になり、同級生がユニコーンや久保田利伸に夢中になっている頃。父は唐突に

「ロイには、湯治がいいんじゃないか?」

と言った。家父長制が当たり前の我が家。父の発言は即、決定事項である。さらに父はこう告げた。

「予算がないから同室だからな。」

私はこの時から、死を願うようになった。

父は出先で私を「愛人」だと紹介した。湯治から帰宅すると、母が怒り狂っていた。

「この人は私の夫なのよ!」

どうして母は、私でなく父を叱ってくれないのだろう。どうして食卓をひっくり返されても、出血するまで殴られても、この人は父を恋い慕うのだろう。

父は面倒くさそうに、母を無視して私に言った。

「この人は俺たちに、嫉妬しているんだよ。」

父は母に愛されたいのだ。だから私を使っているのだ。私は子どもではないのか。どうして私は生まれたのか。

居場所を失った私は、外をさ迷うようになった。森の中、店の軒下、団地の物置・・・安全に眠れる場所を探して歩き続けた。

そしてかつて、お菓子をもらったあの教会の前を通りかかった。こんな夜中だけれど、もし

「ここで寝かせてください。」

と頼んだら、牧師は何と言うのだろうか?そんなことを思いながら、私はしばらくの間、教会を見つめていた。

そんな暗黒の10代を生き延び、ついに私はこの教会で洗礼を受けた。そうしたら何もかもに耐えられなくなって、はじめて父に反抗した。父を平手で殴ったのだ。もちろん100倍反撃された。

私は家族に会えなくなった。今まで普通の子どものように振舞ってきたことが、すべて嘘だったように感じた。だから実家の二階に引きこもるようになった。そしてあの夢を見たのである。イエスさまが小学校の校庭で十字架につけられているあの夢を。あれから私の枕元にはいつも聖書があった。そのみことばに、かすかな希望を置いて、ボロボロになるまで聖書を読んだ。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている
【主】のことば。
それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」旧約聖書 エレミヤ書29章11節

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