性被害からの回復⑨「カミングアウト」
リリー・ロイ
※トリガーアラート
この文章には、性被害についての記述があります。
平穏な日々が続いた。
すると緊張が緩んだせいか、コンビニのバイト中、バックヤードでボーっとしたり、涙が出るようになった。教会にも慣れてきて、入り浸るようになった。お祈り会開始の2時間くらい前からやって来ては、まるで自宅のようにのんびり過ごした。教会と言っても普通の一軒家である。そこに牧師家族が住んでいた。だから突然来る私のことを「時間になったら来てね」と帰してもよかったはずだ。でもまるで子どもがもうひとり増えたように迎えてくれた。私はぼんやり、これが本当の家族なのではないかと、錯覚しはじめていた。
しかしあの人はやって来た。ちょうど私がいない時だった。後日、牧師に呼ばれ、こう相談されたのだ。
「お父さんが教会にいらっしゃってね。ご病気の方に『なんで化粧しないの?』とか『体重減らしなさい』とかおっしゃるので、困りました」
困っているのは私です!思わずそう叫びそうになった。家でああなのだから、外ヅラを良くしようとしてもこのざまだ。私の父は小さな会社の社長をしていた。90年代はまだ、社員教育ということで、怒鳴りつけてもあまり問題にされない時代であった。社長が必要もないボディタッチを女性社員にしても、咎める人はいなかった。でも教会は違うのだ。イエスさまは差別されていた病人や、忌避されていた女性のことを、大事にされた。ここは神の国なのだ。だから牧師も気づいてくれたのだ。
ずっと誰かに言いたかった。世界でただひとりだとしても、私が父にされてきたことを知っていてくれるなら、もう私の居場所に父が侵入してくることもなくなるかも知れないのだ。誰かに言いたい。ずっといのってきた祈りを、この瞬間も祈った。
「主よ、どうぞ、伝わりますように・・・」
つばを飲み込み、ふっと息を吐いてから、勇気を出して私は言った。
「実は、実父から性虐待を受けているんです。」
牧師はうろたえていた。どう言ったら良いか、判らないという風でもあった。しかしすぐに、気を取り直しこう言った。
「悔い改めたらどうですか?」
細くてボロボロで、手すりもないような吊り橋を渡るように生きてきた。一歩でも踏み外せば、谷底へ落とされる。だからこそ聖書だけが、支えだったのだ。私のためにイエスが十字架についたと聞いたから、恨みも恐れも、ぜんぶ祈った。だけどもう、無理だった。私の魂はバランスを失い、橋から落ちた。谷底は冷たく、心は凍り砕けた。体が硬直し、喉に石が詰まったように苦しかった。それでも絞り出すように、蚊の鳴くような声で、こう言った。
「私が、悔い改めるんですか?」
牧師はすぐ、失言に気づいた。そして何かしらの言葉をかけてくださった。しかし記憶がない。どうやって家に帰ったかも、覚えていない。
あれから20年以上、この時のことを考え続けてきた。愛に溢れた牧師が、どうしてこの時「悔い改め」を勧めたのかを。
まず「性虐待」の実態が共有されていなかった。性被害に遭った方々が、沈黙を強いられてきたからだ。被害者であるにも関わらず、抗拒不能であったことを証明し、事実認定されるための証拠を提示できるケースは希であろう。責任は加害者にあるのに、被害者に説明責任を求める取り調べや裁判が行われた上、原告敗訴になることがあまりに多い現状に、周囲が心配する。「あなたがこれ以上傷つかないように、黙っていなさい。」そう言われたことのある人は、多いのではないだろうか。性虐待は魂の殺人とも言われる。精神科にかかる必要も出てくるかも知れない。すると「あの人の精神的問題なんじゃない?」と問題をすり替えようとする力が働くこともある。そのように信じてもらえないことで、無力感は深まる。やがて行き場のない怒りは自分に向く。そうして「自分に落ち度があったからだ」など合理化していかざるを得なくなり、次に出会った被害者にも「仕方ないでしょ」と言ってしまうこともあろう。こうして被害者の声は抑圧され、性被害の実態は隠され続けてきたのではないだろうか。
また、教会によっては強調されてきた純潔教育も、関係しているかも知れない。「性交渉は、神が結び合わせてくださった男女にのみ許されている。」聖書とともに、そのように教えられることが多かったように私は感じてきた。「性虐待」と伝えたけれど、それが「婚前交渉」と伝わったとしたら、悔い改めを勧めるという文脈になるのかも知れなかった。
実は教会に行ってみて、クリスチャンの語りには型があるように感じていた。それは
① 私は神を知らず、自己中心的に生きてきた。
② しかしキリストに出会い悔い改め、信仰をもった。
③ そして人との和解、病の癒し、仕事の成功、心の平安などが与えられた。
というパターンである。
私は教会を居場所にしたかった。けれど③にはほど遠かった。③に到っていないから、牧師は②を勧めたのだろうか、と考えたのだった。
このように、ぐるぐるグルグル考えた。しかしこれらもまた、あまりにも辛い言葉を受け取るための、合理化なのかも知れなかった。
いずれにせよ当時の私には、牧師の言葉は神の言葉であるかのように響いた。だから教会に行けなくなった。イエスさまだけは理解してくれているのだと信じ、それだけが支えだったのに。コンビニのバイト中も立ち尽くすようになり、オーナーに辞めるように言われてしまった。3万円の家賃を、これから払っていけるのか。電気もガスも、止められたらどうしよう・・・。頭が痛くて痛くて、どうすれば良いか分からなくなっていた。
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