Celebration of Life

(わたる 30代/トランスジェンダー・ヘテロセクシュアル男性)

 僕はクリスチャンホームで生まれ育ったトランスジェンダーFTMです。20歳になった時にホルモン投与を開始し、22歳でタイにて性別適合手術を受けました。その後、戸籍上の性別を女性から男性に変更して生きています。

 小さい時から家族で教会に通い、神様とイエス様のことを聞いて育ちました。9歳の時にイエス様を信じて生きていこうと受洗をしました。この時はまだ恐らく周りから見たら“普通の女の子”に写っていたのかなと思います。

 ですがちょうど同じ頃に自分の性別へ違和を感じ始め、「なぜ自分は女の子なの?」と思うようになりました。自分をどうしても“女の子”と思うことができなかったのです。身体の二次性徴が始まるともっと自分の体に対する嫌悪感が強くなり、持っていきようのない怒りや不安、そして孤独を感じていました。

 また教会で過ごす中、キリスト教的にセクシャルマイノリティ= “罪”という対象であり、否定的なものとして扱われていると感じていました。本当にそうなのか?と関連しているとされている聖書の箇所を読んだ時、文字通り受け止めてしまった僕は、自分は神様が作った人間じゃない、悪魔が作ったのだと本気で思いました。教会学校では「みんな神様が作った子供だよ!」と聞いていましたが、自分は「悪魔が作った子供」であって教会にいてはいけない存在だと思い込んでいました。

 また、この事が周りに知られてしまったら、教会から家族全員通う事ができなくなるのではと、不安感を常に抱いていました。ただ、じゃあ自分の事を家族に伝えていたかというとそれはできませんでした。なぜなら理解されないかもしれない怖さと、傷つけ悲しませてしまう不安があったからです。家族に言うことは最大の壁であったと思います。


 実生活を送る上での生きづらさももちろん沢山ありましたが、それと併せて何が一番辛かったか、それは自分に絶望していたその状態で毎週教会の礼拝に出席することでした。自分は神様に喜ばれていない存在であること、また性について否定的に思っている人が多くいるかもしれないと思う場所に行くこと、それは僕にとっては苦痛でしかありませんでした。ただあふれてくる涙を抑えながら礼拝堂の中で座っていたのを今でも思い出します。


 ですが、そんな僕に神様は沢山のメッセージを送ってくれていました。それは僕を否定することではなくて、「それのままでいい、私があなたをそう作ったんだ」という愛のメッセージでした。きっと様々な恐れや不安、自分を愛せずに否定し続け、一人うずくまっていたことによって、そのメッセージに気づく事ができずにいたのだと思います。

 どうしてそのメッセージに気づくことが出来たのか、それは沢山の“人”との出会いがあったからです。僕ははじめてはっきりと「あなたはあなたでいい、神様はそんなあなたを愛しているんだよ」と言葉で伝えてくれた恩師である牧師に出会いました。その人との出会いから僕の道は驚くほど整えられ、今まさに“自分らしい性“で生きることができています。

 また「どのように生きる選択をしても、あなたの人生の中で神様がトップにあれば必ず神様はベストを与えてくださる、だからその神様を信じていこう」と背中を押してくれた母教会の牧師と出会いました。僕を突き放さず、しっかりと向き合ってくれた牧師の存在は僕の信仰生活を支え続けてくれています。

 「父さんには娘が息子に変わる喜びがあるんだよ」と共に喜んでくれた父、「あなたがどんな性であろうと、自分の子供としてあなたを与えてくださった事を神様に心から感謝している」と共に泣いてくれた母、「うん、大丈夫、気づいていたよ!」と一緒に寄り添ってくれた姉がいます。何よりも一番近くで、共に神を信じ歩んでいた家族が一番の味方でいてくれました。

 そして、共に神を信じ“自分という性”のかたちで生きながら神様の愛を伝えていこうとしている同志の仲間がいます。その他にもたくさん、「この性で誕生した事は神様からのプレゼントだ!」と喜ぶ色々なセクシュアリティの素敵な人たちに出会いました。そして今も周りの人たちを見回すと、本当に沢山の人が僕を支えてくれていて、こうして生きていくことを応援してくれています。うずくまっていた僕に手を差し出してくれた人たちが沢山いて、その人たちの中に神様の光が灯っているように見えました。神様は“人”を通して愛を伝えてくれていたのです。


 僕は神様によって出会わされた“人”を通して変えられ、そして自分自身を愛する事を知りました。自分を愛するのはとても難しい事ではありますが、きっと神様はそれを望んでいるのだと思います。自分がどんな性を好きになるかまたならないか、自分の性をどう認識するか、こういったセクシュアリティのかたちもすべて神様がつくってくださったのだと僕は信じています。ですが、様々な宗教の中ではこのセクシュアリティが理由で排除されている人がいます。キリスト教の中でもこのような背景があるのは事実です。

 でも本当にセクシュアリティが排他的にされる理由となるのでしょうか。僕はそれが理由になるとは思えません。なぜなら僕たちが信じるイエス様は、まず神様を愛すること、また隣人を自分のように愛することが大事だと教えてくださいました。自分の隣にいる人が、どんな背景であろうと、そしてどんなセクシュアリティであろうと神様は互いに愛し合うことを望んでいて、まずイエス様がそれを示してくださっている、まさにそこには分け隔てのない神様の愛があるのではないでしょうか。

 僕が出会った仲間は、そのセクシュアリティを含めて神様に祝福されていると“生きる証”として示し続けています。その人生に触れるたびに、本当に神様は色々な性のかたちの人全てを愛していてくださっているのだと思わされるのです。また僕自身もその愛を受けているのだと感じることができるのです。


 僕はこう生まれてとても幸せです。そう思わせてくれる周りの人たち、そして神様に心から感謝しています。これからも自分にしか生きられない人生を与えてくださった神様、また自分を大切だと愛して共にいてくださるイエス様を愛し、これからも信じて、この性と一緒に与えられた人生を生きていきたいと思っています。

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