性被害からの回復④ 「トラウマ治療の同伴者たち」
(ロイ)
人生って孤独なものだ。
仲間と分かち合えた、そう実感できたこと。
やっぱり伝わらない。そう諦めたこと。
渋谷のスクランブル交差点のような人波にもまれながら、内側では叫んでいる。居場所が欲しい。理解されたい・・・と。
トラウマ治療は、とりわけ孤独だ。信じられない事件。心にヒビが入る。そこに更なる圧力。そうして割れてしまった魂で、精神科に行く。病名をもらい、投薬がはじまる。
「先生、薬はいつか止められますか?」
それは答え難い質問だろう。5分程度の診察時間。しんどい旨を、断片的に語るけれど、それが一体、何になるのだろう。
そんな毎月の診察を続けて5年。先生は、トラウマ治療で有名な精神科医を紹介してくれた。その2回目の診察で、思わぬことが起きたのである。
先生は突然、催眠をかけた(と私は感じた)。そして心は過去へと旅をし、ついに一番古い記憶へと達した。それは何てことのない、保育園でのワンシーンだった。しかしそれは、大人に不当に扱われたと感じた、最初の記憶だった。
目覚めると、そこは診察室だった。そして、激しく全身が痛んでいた。その痛みは治療を離れ、10年経った今も、日々変わらずここにある。
ところで、この連載第1回で、私が結婚したことを書いた。こんなやっかいな自分と結婚する人がいるなんて、ありえないことだと思う。その夫とある日、セレモニーを行った。それは奇想天外で、クリスチャンならなおさら、反対されるにきまってるようなことだった。
私は、まだ存命中の父の葬儀を執り行ったのだ。式次第を用意し、讃美歌も歌った。そして聖書を開き、想いを語った。以下は新約聖書 第2コリント5章14節の引用である。
「 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。」
このことばにすがり、私はこう祈ったのだ。
「イエスさま。私はもう父と接したくありません。どうか死んだことにしてください。
聖書にこうあるのですから、すでに父は死んだのです。そう信じて、これから生きていけるように助けてください。
イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン」
こんな聖書解釈は、きっと間違っている。にも関わらず、夫は静かに「アーメン」と祈ってくれたのだった。
聖書には、人はいのちの源である創造主との関係を自ら絶ったとあります。それは希望が湧き出る泉を、捨てたようなものでした。そういう意味で人は、体は生きていても、すでに死んでいるのかも知れません。
しかし上記の聖書の言葉にある「死」には、異なる意味があると思います。それは人を神につなぎ直し、新たに生かすための「死」ではないでしょうか。キリストは、全人類の神との断絶である「死」を身代わりに引き受け、十字架で死なれました。それならばすべての人はこの十字架に、自分の絶望を重ねることが許されるのではないでしょうか。そのようにイエスに重荷を担っていただけるなら、きっとキリストの復活の命をもいただけるのではないでしょうか。
しかし、当時の私にはそんな希望はなかった。ただ死にたかった。あるいは父に、いなくなってもらいたかった。だからこの葬儀を執り行った。この忌まわしい父との関係を、神に絶ってもらいたかった。聖書はさらに、こう続く。
「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」
私はこれから新しい瞳で、自分と人を見ることができるようになるのだろうか。いつかこの憎しみから、這い上がる日が来るのだろうか。
聖書のことばはなおも続く。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
私はあの専門医からのトラウマ治療を、止めることにした。もとの精神科医に帰り、それを報告すると、いたく反対された。
「治療を中断するなんて、手術で患部を開いた常態で生きるようなものですよ。」
それから先生は、診察時間を30分に延長してくださった。それは看護師の入室さえも許さない、真剣な傾聴であった。そこで私は過去から「今ここ」に還ってくる術を、習得できたのである。
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