約束の虹ミニストリー

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「右手に規範、左手には隣人愛。さて、あなたはどうしますか?」〜 とあるゲイのクィア神学的思索 〜(寄稿)

 さまざまな規範があります。規範というのは「◯◯べき」というルールで、個人的なものから組織や共同体に規定されているものまで多種多様で、無数の規範のコードが私たちの社会を覆っていて、さまざまな作用をもたらしています。「結婚は異性愛カップルのもの(異性愛者だけに結婚の特権が与えられるべき)」「心と体の性が一致しないなんて幻想だ(心と体の性が一致しているべき/一致していないなんて妄想に陥るべきではない)」というような性的少数者を圧迫する規範的コードがあります。「アウティングすべきでない」とか「LGBTなどのカテゴリーにくくらないで一人一人を見て」というような性的少数者の側からの規範の要請もあります。キリスト教内にも規範はあって、たとえば「キリストによる以外に救いはない」とか「結婚前に肉体関係を持ってはいけない」などなど、、、。 規範は必ず排他性・抑圧性を伴うと言えるでしょう。規範は「その規範に沿う者/沿わない者」の間に境界線を引いてしまうからです。規範に適合しない/できない人は「逸脱者」や「異端」「変態(クィア)」などのレッテルを貼られ、排除されたり周縁化されたりしてしまいます。そして、人間(社会的動物)である以上、規範なしには生きられないというのもまた現実です。言葉や法律、共同体などの私たちの生活の基盤は規範の上に成り立っています。さまざまな規範のコードが複雑に交差し、絡み合い、時に衝突し、ある人々を痛めつけ、ある人々の生命を脅かしてさえいる、そのような社会の只中にキリスト者は生きています。そのような社会の只中に教会は立っています。 三つの問いにキリスト教は取り組み、応答し続ける必要があるのではないでしょうか。1、キリスト教規範の内実は何か。2、キリスト教は「規範」そのものをどう定義し、どう向き合うべきなのか。3、キリスト教はその規範をどう人々に適用すべきなのか。キリストの愛と恵みに満ち溢れた規範的生き方・あり方とはどんなものなのか。クィア神学はともすると「セクシュアリティにまつわる神学、その中でも特に性的少数者の立場を守るための弁証論的アプローチ」、つまり一つ目の問いに応答する神学とみなされることが多いのですが、そのような理解はクィア神学の大切なポイントを見落としてしまっていると思います。クィア神学は、人間存在に不可分な、そして神学と切っても切り離せない規範、それが措定する規範のコードにそぐわない人々を「ノンクリスチャン」「異端」、そして「変態(クィア)」としてカテゴライズし、排除し、周縁化するキリスト教規範に批判的眼差しを向けるものだからです。その眼差しはセクシュアリティに限定されず、キリスト教の歴史、神学理論、信仰実践全てに向けられます。クィア神学は、神学体系の中の一部分を担うことにとどまらず、神学にとって最も根本的な思考・理論・実践の枠組みに変革をもたらす可能性を持っている、と私は感じています。 私は曽祖父、祖父、父みんな(福音派の)牧師という、生粋のクリスチャンホームで育ちました。福音派キリスト教の規範にどっぷり浸かって生きてきた、ということだと思います。キリスト教の規範の措定の仕方、そして自らの規範意識を疑問視し問い直す機会が教会生活の中でしばしば与えられましたが、特に二つの出来事が心に残っています。 一つ目はある日の祈祷会で牧師が語った「イスラム教はご利益宗教だがキリスト教はそうではない。」という言葉。「イスラム教はご利益宗教だから信じるべきではない/キリスト教はご利益宗教ではなく福音を土台としているから信じるべき」ということだったと思います。それを聞いた時私は疑問を禁じ得ませんでした。「そうは言っても、キリスト教だって「天に宝を積む」とか「天国へ行く」とかご利益宗教的な側面があるんじゃないの?じゃあ、自分は何をもって、キリスト教はイスラム教より優れていて、信じるに値するものである、と言い切れるのだろう。」その時私がしばらく考えた末に出した結論は「これは自分には到底理解できることではない。神さまの領域のことなんだ。たとえ私がわからなかったとしても神さまがそう言われたのだからそうなのだろう。そもそも、自分のような人間が神さまの真理の奥義をうかがい知れると思うことこそが思い上がりではないだろうか。」というものでした。 二つ目は、私が導いていた聖書の学びのグループに来たある女性との出会いでした。私の友人に連れられて来た彼女は「私、自傷癖あるから」「心の病持ってるから」「風俗嬢やってるから」と当たり前のように言い放ちました。私は内心とても焦りました。「聖書のスタンスは明確に婚外交渉や性売買は罪と定めている。でもそれをそのまま彼女の人となりを知らず信頼関係も築けていない状態で伝えるのが正しいとも思えない。さて、自分は彼女とどう向き合えばいいんだろう。」(現在ではセクシュアリティやセックスワークだけでなく、罪についての見解も大きく変わりましたが、、、。)彼女と「キリスト教的規範」の間で内心右往左往していた私がとった方法は、彼女のプライバシーに立ち入りすぎないようにしながらも、彼女の日常について問いかけ、彼女の応答に耳を傾ける。そして、そこに神学的・道徳的見解は決して差し挟まない、というものでした。その時の経験は私の心にモヤモヤを残して、そしてしばらくして彼女が自らの命を絶ったと聞いてからはなおのこと、「自分はあの時別の仕方で彼女と向き合えたのではないだろうか。」との思いを強くしました。 この二つの出来事は規範がもつ排他性や抑圧性を自分に垣間見させてくれた経験だったのだ、と思います。「イスラム教は信じるべきではない(キリスト教を信じるべき)」という規範によって切り離される他者と私。「性を売り物にすべきではない」という規範によって、同じ空間にいるにもかかわらず、表面的には仲良くおしゃべりしてるのにもかかわらず、引き裂かれる彼女と私。その排他性・暴力性への気づき、そして、それらへの違和感を私は心に抱いてクリスチャン生活を送っていました。 そして、5年前にあの出来事が起こってしまいます。現在のパートナーとの劇的な出会い、彼との交際の始まり。それまで意識してこなかった自分のセクシュアリティと対峙することを余儀なくされました。そこで経験したのは、規範によって私自身が真っ二つに引き裂かれるということです。「クリスチャンはゲイであるべきでない。」という規範によって「福音派クリスチャン」である私は「ゲイ」である私から引き裂かれ、私は自分を自分としてどう保っていけばいいのかがまったくわからなくなり、「自分のクリスチャン人生は終わった」と感じ、本当に苦しい日々を送りました。(彼との出会いがどのように劇的で、どのような変化を私にもたらしたのかはまた機会があればお話しいたします。) しかし、その苦しみの中で大切なことを学ぶことができたとも思います。一つは、規範によって守られる側に立つのか、それとも裁かれる側に立つのかは紙一重の違いで、自分の立場性は自分のコントロールの範疇外であるのだ、ということです。人間は社会的動物であって、それはつまり他者との出会いなしでは存在し得ないということ。そして、他者が他者として自分の人生に立ち現れてくる限り、その他者との出会いの先に何が待ち受けているのか、それは誰にもわからないのです。今日まで特定の規範に守られた私が、明日その同じ規範によって打ちのめされている、ということが大いに起こりうるということです。もし、5年前に今のパートナーと出会っていなかったら、私は今も「キリスト教的性規範」に守られ続けて生きていたかもしれません。 苦しみの中で学んだもう一つのこと、それは、異教徒とみなされる「イスラム教徒」や風俗嬢として偏見や差別と戦いながら生きていた「彼女」と自分の置かれている場所が地続きであるということです。それまでは規範のコードによって引かれた境界線によって自分は彼女たちとは隔てられているのだと思っていました。「私はクリスチャンでキリストの側、彼女はノンクリスチャンでこの世界に染まっている側」というように。彼女と私は社会の構造や規範によって、そして、他者との出会いによって人生を翻弄されうるという人間存在の脆弱性によって同じ場所に立たされていたのだということに気づきました。それだけではありません。私が当たり前のものとして受け入れてきた社会的・文化的・キリスト教的規範のコードが彼女を圧迫していたこと。自分が彼女の痛みや苦しみと別の世界に生きているという幻想を抱いていたというだけでは片付けられない、彼女の苦しみに対する自分自身の加害者性を突きつけられたのです。「精神疾患」のスティグマ化をすすめ、彼女のような人たちの生き方の選択肢を制限している価値観や社会の仕組みの中に存在していることに私は無自覚でした。セックスワーカーの方々に私は軽蔑と冷たい憐れみの眼差しを向け続けてきました。キリスト教的規範を隠れ蓑に、私は教会の内外を問わず「他者」と向き合ってこなかったのだ、そして彼女ら/彼らを愛してこなかったのだ、と自分が自分の規範に裁かれる事態になって初めて気付いたのです。「キリスト教的」規範に引き裂かれて初めて、自分が「キリストのように」人々のもとに足を運び、向き合い、愛してこなかったという悲しい現実が示されました。 一人の人間として、一人のキリスト者として、一人のゲイとして、人間存在・社会の規範性、そしてキリスト教の規範性とどう向き合うべきなのか、今も考えています。社会の中で抑圧され、周縁化され、変態扱い(クィア化)され、命を強奪されている人々にキリストの愛と恵みを届けるために、社会の規範・教会の規範とどう向き合うべきか、これからもクィア神学をはじめとする信仰と理論の探求と実践の中で模索していきたいと思っています。立場や思想の垣根を越えて、一人でも多くの仲間とその旅路を歩んで行けたら嬉しいです。 あの時、勇気を出して聖書の学びの会に来てくれた彼女にどんな言葉を投げかけられたでしょうか。ふと教会にやってきたレズビアン女性とどう向き合うでしょうか。誰にも助けを求められずにあなた/私の前に現れてきたゲイ男性にどう話かけるでしょうか。社会やキリスト教内の偏見に苦しんできたトランス当事者にどう届いていくでしょうか。今日、「他者」にどのように歩み寄り、どのように声をかけ、何をすることができるでしょうか。一緒に考えてみませんか?

「それは罪だ」と言う前に~クリスチャンへのメッセージ~

クリスチャンの方に、セクシャルマイノリティの現状を知っていただき、教会としてまたひとりのクリスチャンとしてどのように接したら良いのか、考えるための材料にして頂ければと思います。概要1.キリスト教会においてLGBT当事者が直面する困難  A.カミングアウトができない  B.本心をさらけ出しての交わりができない  C.思い切ってカミングアウトしたけれど2.クリスチャンに願うこと  A.聖書を「解釈」していることを自覚する  B.他人の「罪(だと思うこと)」にどう関わるべきか?  C.「罪か罪じゃないか」とは違う視点で:「実」を見てください  D.終わりに1.キリスト教会においてLGBT当事者が直面する困難A.カミングアウトができない自分をどのような性別に認識しているか、またどんな性別に惹かれたり、惹かれないかという「セクシャリティ」は、人にとってアイデンティティの大切な一部です。社会において「普通」とされる、性自認が身体の性別と一致していて、異性にのみ惹かれる「シスジェンダー・ヘテロセクシャル」の人たちは、世の中でも教会でも「男/女」として規範に適合しているため、セクシャリティを意識せずに生きられますが、それと違う自覚のある「セクシャルマイノリティ」にとっては、常に自分と違う規範との間の葛藤があります。自分を押し殺して規範に合わせ「クローゼット」として生きるか、自分の本来の姿を現す「カミングアウト」に踏み切るのかは、多くのセクシャルマイノリティにとって大きな問題なのです。しかし「キリスト教では同性愛は罪」という噂を聞いていたり、信徒も牧師も明確にはセクシャリティについて話題にしていなくてもなんとなく「それは罪」という暗黙の雰囲気があるため、万一断罪されたら居場所がなくなるという恐怖から、一般社会以上に、教会でのカミングアウトは困難です。性別を移行している途中のトランスジェンダーや、フェミニンなゲイ、ボーイッシュなレズビアンなど、外見からセクシャルマイノリティであると判断されやすい人の場合は、そもそも教会に行きづらいという声もあります。B.本心をさらけ出しての交わりができないカミングアウトができないとどうなるでしょうか?・恋愛やパートナーシップのこと、性別移行についての悩み、それらに伴った家族関係の悩みなど、一番誰かに聞いてほしい・祈って欲しいことを教会で話せない。・同性愛・両性愛者の場合、異性愛者のフリをするため小さなウソを付き続けなくてはいけないことが多いです。本当は同性の恋人はいるけど、教会に連れてこれない、相手が同性だとバレたらどうなるか怖いので、恋人はいないことにしているなど。嘘をついている罪悪感、自分の大切な人の存在を否定しているようで苦しい、などの葛藤が続きます。・性別移行前のトランスジェンダーでカミングアウトしていない人だと、不本意に性自認と違う性別で扱われることが続き、大きなストレスとなります。性別移行済みの場合は、過去に別の性別として生きていたことを隠し通すという苦労も生じます。これらの悩みは一般社会においても同じように生じますが、最も自分らしく安心して過ごせるはずの教会でそれができないのは、輪をかけてつらいことなのです。さらには、一般社会以上に、結婚することが期待される強制異性愛主義な空気が出来上がっており、同性愛者だけでなく、誰にも恋愛感情が向かないアセクシャル、誰にも性的に惹かれないノンセクシャルの人たちも居心地が悪いです。C.思い切ってカミングアウトしたけれどこのように、カミングアウトせずクローゼットで居続けることによって生じる様々な困難のゆえ、またセクシャリティに起因して社会で感じる生きづらさを相談したいために、また純粋に自分自身について本当のことを知って欲しいという思いから、ほかの教会メンバーや牧師にカミングアウトする人もいますが、その反応によって傷つくケースが多々あります。・「悔い改めるべき罪」だと諭される。・病気だと見なされ、「癒されるように」と勝手に祈られる。・いい人さえいれば“治る”かもと、不本意に異性を紹介される。・希望しない性別での扱いを続けたり、強化される。・奉仕から外される。牧師や伝道師になることを反対される。・ほかの教派・教会に行くように言われる。・パートナーと別れるように言われる…etcこのような否定的な反応によってとても傷つき、落胆します。愛する教会のメンバーや敬愛している牧師に、なんとか理解して受け入れてもらいたくて、対話を重ねようと努力する人もいますが、はじめから否定されたことで非常なショックを受け、教会を去ってしまうことも珍しくありません。また、誰か一人に打ち明けたのに、そのことがあっというまに教会中に広まってしまい居場所を失ったということもあります。本人が公にしていないセクシャリティを、当人の許可を得ずに第三者に伝える行為はアウティングと呼ばれる、大変危険な行為です。2.クリスチャンに願うことA.聖書を「解釈」していることを自覚する聖書は、私たちとは全然異なる時代の、まったく違う文化背景で書かれたものです。表面的な文言だけ読んでいても、当時の直接的に語りかけられていた対象の人たちに当たり前に共有されていた前提事項はわかりません。一見すれば同性愛を罪に定めていると思われる箇所であっても、その文章がどのような状況で、何を目的として書かれていたか簡単に知ることはできない以上、簡単に現代に当てはめて、すべての同性間の性的な関係を禁じたりする根拠に使うことはできないのです。当時の時代背景などはリベラルサイドからの研究の方がその点進んでいることが多いのですが、福音派の教会にいるとそれらに触れる機会も乏しくなりがちです。「聖書は文字通り受け止めるべきであって、信仰を持って読めば聖書が何を言っているかちゃんと理解できる」という主張を見かけますが非常に危険だと思います。そもそも、聖書解釈は時代によって大きく変わってきました。昔は罪だったけど今はそうじゃないことやその逆がたくさんあります。果たして人間に、罪を明確に定義することは可能でしょうか?同性愛やトランスジェンダーを否定する上で、「聖書にそう書かれているから」と主張する人たちがたくさんいますが、それは理由になりません。なぜなら、書かれているけど無視している箇所がたくさんあるからです。聖書に書かれているから罪というのであれば、違う素材のミックスで作った服を着ていても、もみあげを剃っていても、銀行にお金を預けていても、下着を2枚以上持っていても、全部罪です。ひとつでも当てはまるなら、同性愛だけを罪と指摘することはできません。「それらは現在は罪ではないけど同性愛は現在も間違いなく罪です」という人は、自分の解釈を聖書の上に置いていることになります。「LGBT擁護のために聖書を勝手に解釈するな」という主張は、「自分は聖書を正しく解釈できている、いや自分は私的な解釈などほどこさず、書き手の意図のままに読めているのだ」というおごりの上に成り立っていると思います。あるいは、生理的に受け付けないという個人的な感覚を、肯定してくれる聖書箇所を都合よく持ち出しているということもあるでしょう。もしくは、多くの牧師がそう言っているからそうに違いないという思考停止に陥っていて、「あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか」(ルカ12:57)というみことばを実践できていません。それでもどうしても「罪」という認識が消せなかったら、次のような観点でこのことに向き合って欲しいと思うのです。B.他人の「罪(だと思うこと)」にどう関わるべきか?自分がその行為をする・しないの基準として「罪かどうか」と考えることと、他人にその基準を当てはめ守らせようとすることには明確な違いがあります。時代・文化・共同体のみならず各個人ごとに、何が罪であるかは違っています。互いに裁き合わないことが大切だとイエス・キリストも、パウロも(ローマ14章など)教えています。クリスチャンのLGBT当事者が、その自分のあり方を罪だと思って、やめられるように、変われるように祈って欲しい、と願っているのなら、そのように一緒に祈るのも良いと思います。しかし、信仰によって自分のセクシャリティを感謝して受け止め、どのような性別で生きるかを決心したり、パートナーを「神様から与えられた人だ」と確信して愛している人に、それを否定する権利がはたしてあるのでしょうか?どうしても、その人がセクシャリティのことで罪を犯しているという前提で祈りたいのであれば、本人の前ではなく、影で一人で祈って欲しいと思います。それが御心に一致しているならば、あるいは叶えられるかもしれません。しかし、本人の前で、祈りを使って否定したり罪に定めることは、霊的・心理的にとても暴力的な行為だと思いす。自分が罪だと思っているのに、本心を曲げてまで「それは罪じゃないよ」と言うべき、というわけではありません。信頼関係が十分築けているなら、「私は、罪だ『と思う』けど」と正直に伝えることも、時にはOKだと思うのです。でも、その上で、相手の信仰による選択に対して否定せず尊重することもセットにしていただければと思います。「それは罪だ」という言い方は、「あなたよりも私のほうが、神のみこころを正しく知っているのです、クリスチャンとして上です」と言っているように聞こえてしまいます。C.「罪か罪じゃないか」とは違う視点で:「実」を見てくださいそして、「罪か罪じゃないか」論争で見落とされがちな視点だと思うのですが、私たちが問いたいのは、「あなたにとって他者であるセクシャルマイノリティ当事者」がどうすべきかではなく、「クリスチャンであるあなた」の態度です。皆さんがクリスチャンとして、目の前のひとりに何をどのように伝えるのかが、相手の人生に大きく影響します。「その木が良い樹かどうかは、実を見ればわかる」とイエス・キリストは教えました。二本の木は、ここでは二通りの教え、態度です。一方は、「それは罪だ」と伝えてやめさせようとする教えです。もう一方は、こちらの価値基準で裁かずに、相手の信仰による選択を尊重するという道です。・「それは罪だ」と伝え、やめるように言い続けた場合、どのようなことが起こるでしょうか?そうかもしれないと思って従おうとしても、そうそうセクシャリティは変わりません。「祈っても変われない自分は不信仰なんだ」「神に見放されているのかもしれない」「異性愛者になれない限り自分は一生伴侶を持つことができないのだ」と絶望します。自己肯定感は下がり、神様を信頼できなくなり、悲観的・消極的に表面的な教会生活を送ることになってしまうかもしれません。自分が抑圧的に生きているので、他者に対しても寛容になれないということもあります。海外では、クリスチャンである親から聖書を盾にセクシャリティを否定され続け、自殺してしまった子供もいます。周囲のプレッシャーに負けて、もしくは異性と結婚することだけがみこころなんだと思ってそうしたけれどうまくいかず、やはり同性が好きになり離婚に至ってしまうケースも少なくありません。自分自身の確信としてそのセクシャリティは神様から与えられたものだと肯定的に思っている人の場合でも、罪だと見てくる人のいるその教会に通い続けることは難しくなるかもしれません。白い目で見られながらパートナーと礼拝出席したり、自認する性に合わせた格好で通うことは辛すぎます。神様への信仰は失わなかったとしても、そのような教会生活に疲れ果てて教会を離れ、信徒同士の交わりが失われてしまうことになります。特定のセクシャリティにならない限り、真に受け入れられていると感じられないような共同体に居続けるのは、とても苦しいのです。そのような教会を通して、「神様に愛されている」と知り、感じることは難しいのではないでしょうか。・逆に、裁かないでその人の信仰による選択を尊重するならどうなるでしょうか?たくさんの良い「実」を見ることができます。教会で自分らしくいられるなら、神様に愛されていることをわかりやすく実感できます(もちろん、迫害や困難の中に神様の慰めを体験することもたくさんありますが)。与えられた賜物を様々に生かして奉仕ができます。自分を造られた神様に感謝し、その愛をほかの人に喜びをもって伝えることができます。他者にも寛容になれます。具体的な例:代表ルカ(トランスジェンダー)の体験より:ルカ姉妹と呼ばれていた頃は、祈ってくれても自分のことと思えなかった。寺田兄弟、ルカくん、彼と呼んで祈ってくれたとき、本当に祈ってもらえている感じがした。女性の枠に入れられていた頃はどうしても抵抗があって女性のグループで心を割れなかったが、カミングアウトして男性として受け入れてもらえるようになってからは男性グループで深い交わりができるようになり、女性とも、少なくとも女性同士ではない体で接してくれている人との方が話しやすくなった。CSスタッフとしても、男子との方が圧倒的にやりやすい。あるゲイ男性の体験より:異性愛者は結婚して異性のパートナーに仕える賜物があるけど、ゲイは男性に、レズビアンは女性に仕える賜物があると思う。好きな人の異変にはいち早く気づくことができるから、今の同性パートナーにはきめ細かくケアできているけど、無理に好きでもない異性と結婚していたら、同じようにはできないと思う。パートナーと暮らす中で自分の足りなさを示されて悔い改めたり、一緒に神様を仰いで成長し合える関係は、異性カップルと何も変わらない。D.終わりにクリスチャンから言われて嬉しかったこと、こう言われたら嬉しいと思うことば・どう接して欲しい? どういうふうに祈って欲しい?・神様があなたたちを出会わせてくれたんだね。私も二人の関係を祝福して応援したい。・あなたはそういう風に神様に造られたんだね!・わからないから失礼なこと聞いちゃうかもしれないけど、あなたのことをもっと深く知りたいから、教えて欲しい。教会の対応で嬉しかったこと、願うこと・兄弟/姉妹呼びを、本人の願う性別にする。もしくはそういう呼び分けをやめる。・男女で分けがちなところをもっと柔軟に変える。・宿泊行事のとき、部屋分けや入浴のタイミングなど、希望を聞いて、どうすればいいか一緒に考えてくれる。・同性同士の結婚式もさせてくれる。どうしてもその教会では無理だという場合でも、できる教会を一緒に探してくれる。

虹は私たちの間に 性と生の正義に向けて

山口里子 著新教出版社ISBN978-4-400-42706-3聖書の中のセクシュアリティ同性愛断罪の根拠と見なされてきた聖書テキストを網羅的に取り上げ、徹底的で緻密な読み直しを試みると同時に、多様なセクシュアリティに言及しているテキストをも詳細に再検討する。神の創造の豊かさと祝福を確認し、父権制の変革を志した渾身の力作。(裏表紙より)昨今の「聖書によると同性愛は罪」という、一部の(しかし少なくない)クリスチャンたちの主張に対し、聖書学の切り口で「ほんとうに聖書はそう言っているのか?」を丁寧に分析しています。すでに「キリスト教において同性愛は罪というのは動かぬ事実」と信じてきた人にとっては、「テキストを同性愛者の都合のいいように無理やり解釈しているのでは」と思われるかもしれません。しかし、聖書からそのような主張を導き出した人たちも、それぞれ聖書を「解釈」してそのような主張をしているのであって、先入観なしに聖書を100%正しく読める人は存在しないのです。また、福音派の教会に長くいた人にとっては、著者の聖書観に違和感を感じて、読み進めるのに抵抗を感じるかもしれません。でも、いったん自分の中に築き上げられてきた教派特有の前提は脇に置いて、原語であるヘブル語・ギリシャ語のニュアンスや、それらのテキストが書かれた時代背景について詳細に書かれた記事を読み、そこから浮かび上がってくる「本来著者はこの箇所を通して何を読者に訴えているのか」という著者なりの解釈に耳を傾けてみるなら、きっと新しい発見があると思います。

キリスト教では「同性愛は罪」なんですか?

キリスト教はその教えの根拠を「聖書」に置いていますが、解釈は人の数だけ存在しています。なので、同性愛が罪かどうかについての一致した意見というのは、キリスト教には存在していないのです。そもそも、○○は罪である という断罪リストは、キリスト教の本質ではありません。しかし、男性が男性と寝る(=性交する)ことは死罪にあたる、と書かれた聖書箇所などを根拠に、「聖書は同性愛を罪だと言っている」と主張するクリスチャンが多いことも事実です。実際にそのように言われて、傷ついたり、教会に行けなくなったり、クリスチャンの親から勘当されてしまった同性愛者・両性愛者の人たちがたくさんいることは、本当に悲しいことです。ここで注意しなくてはいけないのですが、聖書は、長い年月にわたって様々な地域、文化、風習などを背景に書かれた書物ですから、一読しただけで著者の意図したことがわからないこと、誤解されてしまうことがたくさんあります。そもそも聖書自体の成立過程についても、研究者によって、またキリスト教の各教派によって、様々な見解があって、クリスチャンの中でも、「一字一句神によってもたらされた聖なる書物であって、全部文字通り信じて従うべきだ」と考える人はごく一部で、「イエス・キリストによる救いについての証言としては完全だが、人間によって書かれているので矛盾や誤りも含みうる。あくまで個人的な人生の指針、信仰の手引きとして読むべき」「歴史的事実も含んでいるが、書き手の都合で歪められたり削られた部分もあるので、様々な研究と比較して慎重に読むべき」というスタンスの人の方が多数派です。何を罪とするかは、聖書をどのように読んでいるかという基本姿勢によって変わります。しかも、聖書に書かれた教えを初めから終わりまで守ることのできる人は一人もいません。なので、本当は、誰かの罪について裁く資格のある人は一人もいないのです。また、同性愛者であることはイエス様の救いにとって何の妨げにもなりません!多くの同性愛者・両性愛者が、イエス様を信じ、心から愛し、教会生活・社会生活の中でその愛を実践しています。同性愛の断罪によく使われる聖書箇所の解説については、また別記事に投稿する予定ですが、少なくとも約束の虹ミニストリーでは、同性に性的に惹かれる気持ちや、同性間の性行為を罪だとは考えていません。今現在、通っておられる教会で同性愛は罪と教えられたり、クリスチャンにそのように言われたとしても、絶望しないで大丈夫です。イエス様はいつだって、人々から差別されている人たちの味方でした。どんなセクシャリティの人も、神様に造られた尊い存在であって、その愛から漏れる人は一人もいません。