約束の虹ミニストリー

記事一覧(5)

虹は私たちの間に 性と生の正義に向けて

山口里子 著新教出版社ISBN978-4-400-42706-3聖書の中のセクシュアリティ同性愛断罪の根拠と見なされてきた聖書テキストを網羅的に取り上げ、徹底的で緻密な読み直しを試みると同時に、多様なセクシュアリティに言及しているテキストをも詳細に再検討する。神の創造の豊かさと祝福を確認し、父権制の変革を志した渾身の力作。(裏表紙より)昨今の「聖書によると同性愛は罪」という、一部の(しかし少なくない)クリスチャンたちの主張に対し、聖書学の切り口で「ほんとうに聖書はそう言っているのか?」を丁寧に分析しています。すでに「キリスト教において同性愛は罪というのは動かぬ事実」と信じてきた人にとっては、「テキストを同性愛者の都合のいいように無理やり解釈しているのでは」と思われるかもしれません。しかし、聖書からそのような主張を導き出した人たちも、それぞれ聖書を「解釈」してそのような主張をしているのであって、先入観なしに聖書を100%正しく読める人は存在しないのです。また、福音派の教会に長くいた人にとっては、著者の聖書観に違和感を感じて、読み進めるのに抵抗を感じるかもしれません。でも、いったん自分の中に築き上げられてきた教派特有の前提は脇に置いて、原語であるヘブル語・ギリシャ語のニュアンスや、それらのテキストが書かれた時代背景について詳細に書かれた記事を読み、そこから浮かび上がってくる「本来著者はこの箇所を通して何を読者に訴えているのか」という著者なりの解釈に耳を傾けてみるなら、きっと新しい発見があると思います。

キリスト教では「同性愛は罪」なんですか?

キリスト教はその教えの根拠を「聖書」に置いていますが、解釈は人の数だけ存在しています。なので、同性愛が罪かどうかについての一致した意見というのは、キリスト教には存在していないのです。そもそも、○○は罪である という断罪リストは、キリスト教の本質ではありません。しかし、男性が男性と寝る(=性交する)ことは死罪にあたる、と書かれた聖書箇所などを根拠に、「聖書は同性愛を罪だと言っている」と主張するクリスチャンが多いことも事実です。実際にそのように言われて、傷ついたり、教会に行けなくなったり、クリスチャンの親から勘当されてしまった同性愛者・両性愛者の人たちがたくさんいることは、本当に悲しいことです。ここで注意しなくてはいけないのですが、聖書は、長い年月にわたって様々な地域、文化、風習などを背景に書かれた書物ですから、一読しただけで著者の意図したことがわからないこと、誤解されてしまうことがたくさんあります。そもそも聖書自体の成立過程についても、研究者によって、またキリスト教の各教派によって、様々な見解があって、クリスチャンの中でも、「一字一句神によってもたらされた聖なる書物であって、全部文字通り信じて従うべきだ」と考える人はごく一部で、「イエス・キリストによる救いについての証言としては完全だが、人間によって書かれているので矛盾や誤りも含みうる。あくまで個人的な人生の指針、信仰の手引きとして読むべき」「歴史的事実も含んでいるが、書き手の都合で歪められたり削られた部分もあるので、様々な研究と比較して慎重に読むべき」というスタンスの人の方が多数派です。何を罪とするかは、聖書をどのように読んでいるかという基本姿勢によって変わります。しかも、聖書に書かれた教えを初めから終わりまで守ることのできる人は一人もいません。なので、本当は、誰かの罪について裁く資格のある人は一人もいないのです。また、同性愛者であることはイエス様の救いにとって何の妨げにもなりません!多くの同性愛者・両性愛者が、イエス様を信じ、心から愛し、教会生活・社会生活の中でその愛を実践しています。同性愛の断罪によく使われる聖書箇所の解説については、また別記事に投稿する予定ですが、少なくとも約束の虹ミニストリーでは、同性に性的に惹かれる気持ちや、同性間の性行為を罪だとは考えていません。今現在、通っておられる教会で同性愛は罪と教えられたり、クリスチャンにそのように言われたとしても、絶望しないで大丈夫です。イエス様はいつだって、人々から差別されている人たちの味方でした。どんなセクシャリティの人も、神様に造られた尊い存在であって、その愛から漏れる人は一人もいません。